〈聖書箇所〉ルカの福音書23:23−34、ヨハネの福音書19:26−27。
ルカの福音書23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
ヨハネの福音書19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。19:27
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
「十字架の道」の第14回です。イエス様は、十字架に釘づけられてから死なれるまで、十字架上で七つの御言葉を語られました。死を目前にした人たちが過去を回想して遺言を残すように、イエス様も、御言葉であられるのが肉身になって、この地上に来られてから死なれるまでの全てのことを回想してまとめ、七つの御言葉に託されたのです。これを「十架上の七言」と言いますが、きょうは、そのうちの三つの御言葉について説き明かしています。
(1)第一言「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエス様が十字架の上で最初におっしゃった御言葉は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」という、仲保者(仲介者)としてのとりなしの祈りでした。(へブル8章6節、9章15節、12章24節、テモテT・2章5節)ここで「彼ら」というのは、当時、イエス様を迫害して十字架に釘づけてあざけった者たちだけではありません。罪人になった私たち全て、つまり、十字架の後にもイエス様を救い主として迎え入れずに、闇の中を歩み続けている人類の全てを指しておっしゃった御言葉です。私たちも、初めから主を迎え入れて、真理の中を生きてきたわけではないからです。
私たちは闇の中を生きているために、光を嫌い、義人を嫌い、真理を嫌います。ですから、私たちの罪を購うためにこの地上に来られたイエス様を知ろうともせずに、光であられるイエス様を嫌って、十字架に釘づけてしまいました。しかしイエス様は、父なる神様に「彼らは、真理を知らないために罪を犯したのですから、赦してください。」と愛の懇願をしてくださったのです。マタイの福音書5章44、45節を見ると、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」とおっしゃっています。
私たちがイエス・キリストを迎え入れて、聖霊を受けて光の中で生きていこうとするならば、闇を支配している宿敵である悪魔サタン、すなわち「人間の悪しき行動を主管する霊的存在」がそれをいやがって、闇の中を生きている人々を通して妨害し、迫害してきます。また、伝道すると、あざけって迫害してくる人もいます。これは、真理を知らないために、なぜイエス・キリストを迎え入れて、善の中で御言葉を守り行なって、世と区別された生き方をしなければならないのかを、全く知らないからです。
ですから、私たちも、あらゆる人を哀れに思って「父なる神様、彼らをお赦しください。そして彼らの霊の目を開いて、イエス・キリストを救い主として迎え入れて、私たちと一緒に天国に行くことが出来るように、祝福してください。」という愛の懇願をしなければならないのです。
このように神様の子供たちは、白分を認めて善を成し遂げてくれる人だけではなく、自分を迫害して苦しめる者をも愛の心をもって赦して、祝福を祈って、彼らも救われるように助けてあげなければなりません。とは言っても、全ての人を赦して祝福を祈りなさい、ということではありません。
ヘブル人への手紙6章4〜6節を見ると、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とおっしゃっており、
ヘブル人への手紙10箪26、27節にも、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」とおっしゃっているからです。
(2)第二言「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
イエス様が十字架に釘づけられた時、ふたりの犯罪人もともにつけられたのですが、そのうちのひとりの強盗が、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と告白しました。するとイエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とお答えになりました。
この御言葉には、多くの霊的な意味が含まれており、私たちは多くのことを悟ることが出来ます。神様の国である天国は、激しく攻められていて、私たちが行なったとおりに報われ、蒔いたとおりに刈り取る所なのです。ですから、私たちがどれほど信仰を持って、罪と血を流すまで戦って捨てて霊的な人になったのかによって、住まいと栄光が違ってきて、また報いも違ってくるのです。
この地上での行ないによって、与えられる栄光が違い。コリント人への手紙第一15章41、42節、「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」、ヨハネの福音書3章6節に、聖霊によって霊が生まれるとあるので『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』どれほど霊的な人になったかによって、天国でのすまいが違うのです。青年と壮年が心置きない交際は出来ないように、ちょうどそのようなわけで天国が分けられている、という意味です。
コリント人への手紙第二12章2節「第三の天にまで引き上げられました。」列王記第一8章27節「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。」詩篇148篇4節「天の天よ。天の上にある水よ。」ヨハネの福音書14章2節「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」本文に出てくる強盗は、死の直前に悔い改めてイエス様を救い主として迎え入れたにすぎず、この地上で生きている間、天国に入るために御言葉を守り行なったことはありませんでした。
罪と戦って捨てたこともなく、使命を果たしたこともなく、主の御名のために忠誠をつくして奉仕したことも全くないので、報いの与えられない楽園に行くのです。それでは、イエス様はなぜ、強盗とともに楽園にいる、とおっしゃったのでしょうか?これは、イエス様は楽園にだけおられる、という御言葉ではないからです。イエス様は王の王、主の主ですから、どこにでも分け隔てなくともにいてくださり、治めておられます。
ですから天国のどこにでもおられるように、楽園にもともにおられる、という意昧なのです。イエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とおっしゃいましたが、ここで「きょう」とは、十字架で亡くなられた日の金曜日を指しているのではありません。
悔い改めた強盗が救われて神様の子供になったので、きょうから後はどこにいても、イエス様が、神様の子どもである強盗とともにいてくださる、とおっしゃったのです。イエス様は、十字架に釘づけられて亡くなられた日に楽園に行かれたのではなく、よみに行かれたことが、聖書に書かれているからです。マタイの福音書12章40節を見ると、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三目三晩、地の中にいるからです。」とおっしゃっており、エペソ人への手紙4章9節を見ると、「この上られた。ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」とおっしゃっております。
公義と愛に富んでおられる主は、よみに下って、獄にいる霊たちに三日の間、福音を伝えられたのです。ペテロの手紙第一3章19節を見ると「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」と、おっしゃっています。イエス様が十字架に釘づけられる以前の旧約の人々や、福音が入る前のこの地上の人々の中には、創造主なる神様を心の中で認めて、善良な生き方をした人々がいました。彼らの霊と魂は、最後の審判があることを感じ、それを彼らの良心が証ししたので、善に従って生きていました。
ローマ人へ手紙2章14節と15節を見ると「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、」と、おっしゃっています。
イエス様は、このような者たちが死んだ後に行く獄に下られて、ご自身を自ら証しされたのです。なぜなら、世界中でイエス・キリストの御名のほかには、救いを与えうる者はないので、獄(ごく)にいる霊たちが救われるように、ご自身を証しされなければならなかったからです。(ペテロ第一3章19節)
(3)第三言「女の方。そこに、あなたの息子がいます。........そこに、あなたの母がいます。」
イエス様はこの三番目の御言葉をとおして、主を信じる神様の息子、娘はみなひとつの兄弟だということを、十字架の上で宣言されました。ここで「息子」とは、イエス様ご自身ではなく、ヨハネを指しています。イエス様の十字架刑を悲しんでいるマリヤに、これからはヨハネを息子と思うように告げ、ヨハネには、マリヤを母のようにして仕えることを頼んだのです。
ヨハネの福音書19章25〜27節を見ると、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」と書かれています。
本文に書かれている「母」ということばは、イエス様がおっしゃったのではなく、ヨハネの福音書の記録者である弟子ヨハネが自分の観点から見たものです。
なぜイエス様は、ご自分を生んでくれたマリヤを「お母さん。」ではなく、「女の方よ。」と呼ばれたのでしょうか?イエス様は、神様の子供として肉体を持ってこの地上に来られる時に、処女マリヤの体を借りて聖霊によって生まれましたから、肉的にはマリヤが母になり得ますが、霊的には、母ではあり得ません。私たちの救い主であるイエス様は、三位一体の神様のおひとりとして創造主ご自身であられるのに、どうしてその母が存在するでしょうか?
ですから、イエス様が人の子として御言葉を語られた時には、肉的に生んでくれた処女マリヤがいるのですが、復活されて私たちの救い主になられると、創造主である神様には母はあり得ないので、このようなわけで、「お母さん。」ではなく「女の方よ。」と表現されたのです。
参考:公生涯とは御国の福音を宣べ伝える期間、宣教を開始し
聖書を詳しく読んでみると、イエス様は公生涯を始められてからは、マリヤを「お母さん。」と呼んでいませんし(ヨハネの福音書2章1〜11節)「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」公生涯を終えられる場でも、マリヤに「女の方よ。」という呼び方をして、イエス様が救い主としてこの地上に来られたことを証ししておられます。
イエス様はこの御言葉で、肉的には自分が身ごもって生んだ息子のイエスが今、十字架に釘づけられて死のうとしているため、胸が張り裂けんばかりの苦しみに耐えているマリヤを慰めました。また、愛する弟子であるヨハネに、マリヤを母のようにして仕えることを頼んで、母に対する息子だと思うようにおっしゃいました。
つまり、イエス様を救い主として迎え入れた神様の子供たちは、血肉関係を脱いだ「天の御国の国籍(ピリピ人への手紙3章20節)を持った天国の民である」という所属意識を、はっきりと悟らせておられるのです。マタイの福音書12章46〜50節を見ても、『わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『..天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」とおっしゃって、所属をはっきりさせておられるのです。
ですから、天の国籍がある神様の子供たちは、光の中で行なっていって信仰が育つほどに、天の御国への所属意識がはっきりしてきて、以前には自分の血肉の兄弟のほうがよくてかわいいと思ったのが、次第に、信仰の兄弟がかわいいと感じるようになります。光であられる神様に従って光の中に住むようになるので、闇の中に住む世の人々とは区別されるからです。また、神様の子供でなければ、永遠の兄弟姉妹にはなれないからです。
したがって私たちは、本当の親や兄弟姉妹がだれであるかをはっきりと知って、イエス・キリストを迎え入れることを拒んで減びの道を歩いている者たちに、力を尽くして伝道しなければならないのです。 |