nituite
十字架の道(1)創造主なる神様と聖書 十字架の道(2)人間を創造された神様
十字架の道(3)人間を耕作される理由 十字架の道(4)善悪の木をおかれた理由(1)
十字架の道(5)善悪の木をおかれた理由(2) 十字架の道(6)天地の創造の前から隠された奥義(1)
十字架の道(7)天地の創造の前から隠された奥義(2) 十字架の道(8)「イエス様がなぜ私達の救い主になられるのか」
十字架の道(9)飼い葉桶に寝かせたイエス 十字架の道(10)癒し主イエス様
十字架の道(11)いばら冠と着物を取った理由 十字架の道(12)十字架の処刑
十字架の道(13)十字架の処刑(2) 十字架の道(14)十字架上の七言(1)
十字架の道(15)十字架の上の七言(2) 十字架の道(16)この奥義は偉大です
十字架の道(17)永遠のいのち(1) 十字架の道(18)永遠のいのち(2)
十字架の道(19)永遠のいのち(3) 十字架の道(20)永遠のいのち(4)
十字架の道(21)水と御霊によって新しく生まれるならば救われる
創造主なる神様と聖書◇   「十字架の道(1)」  
 

〈聖書箇所〉創世記1:1

「初めに、神が天と地を創造した」

今日からは十字架の道、即ち、救いのみことばに対してお話しを致します。十字架の道は天地創造の前から隠されていた神様の奥義として十字架の中には、神様の愛と公義が含まれています。十字架の道は、あたかも家訓が家庭生活の支えるものになるように、信仰生活に基礎と本質になる必ず必要なメッセージです。

したがって神様の子どもたちは十字架の中にどんな秘密が含まれているので、私たちのあらゆる罪が贖って救われて霊的に命が生まれて、永遠の命である天国に導かれるのか、また、どんな祝福がその中に込められてあるのか具体的にはっきりと知って信じなければならないです。ロ−マ人への手紙10章10節を見ると「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とおっしゃったためです。
今日は初めに、神様がどのような方であり、確かに生きておられて、どのように御業を行なっておられるかについてお話しを致します。

(1)神様は創造主です

 神様は、御言葉で天地万物を創造されて、すべての宇宙万物と世界の歴史、人類の生死禍福を支配しておられます。ところが、万物の霊長と呼ばれ、動物とは違い理性を持っている人間が、なぜ、神様を信じられないのでしょうか。ほとんどの人々は神様が創造主であると言うことを習わないまま生きているので、「神様は創造主です」と聞いても信じられないのです。
 
それでは、私たちの目に見える宇宙万物は、どのように造られたのでしょうか。私たち人間はどこから来て、すべての動物はどのように生じ、地球、太陽、月、星等のような宇宙の起源は何なのでしょうか。答えを探しにくい問題ですから、簡単に諦めてしまう質問ですが、命の起源に対しての確かで正しい理解は、その人の人生の目標と生の意味に多くの影響が及ぶこととなるのですから大切な問題です。神様を信じない人々は、進化を信じるので、神様を認定せずに自分勝手に生きていますが、神様を信じる人々は、創造を信じ、天国と地獄があるのを信じているので、神様の御心に従って歩もうと努力します。

今日、科学が発達すればするほど、進化論の虚構性が現れ、創造論と進化論を科学的に調べてみても、進化によって宇宙万物が造られる確率が少ないので、創造論を信じることより、進化論を信じることの方が難しくなってきています。誰もが理解することができる一番優しくて月並みな創造論を一つ説明致しましょう。全世界のすべての人々や獣、海の中の魚まで、その形を細かく調べてみると、全部同じ形をしていることを発見することが出来ます。二つの目の下に一つの鼻、その下に一つの口、鼻の横に二つの耳がありますね。どうしてそのように別々のものの位置設定が一定で、その数が同じなのでしょうか。これを見るとき、確かに、ある一人が設計して創造された作品だと感じられないでしょうか。

全知全能の神様が設計され、創造されたのだと言うことが、確かに解ります。そのほかにも、地球の自転と公転、満ち潮と引き潮の交差、風と雲の動き等、太陽系の中のすべての事に秩序があり、正確に運行されていることだけを見ても確かに解ります。決して、宇宙が大爆発によって偶然に起こった事ではなく、創造主なる神様が創造され、適材適所に、まるで時計のネジが秩序をもって回転し、正確な時間を守るように、すべてが秩序をもって運行されるように御業を成されたことを知るべきです。(ローマ1章20節、創世記1章1節、ヘブル11章3節)

(2)神様は自らおられる方です

 それでは、創造主なる神様は、初めにどのように存在されることになったのでしょうか。出エジプト記3章に見ると、モーセが神様に呼ばれ、イスラエルの民たちをエジプトから導き出すように使命を受ける場面があります。その時、モーセが神様に質問したその答えとして、神様は、モーセに仰せられた「わたしは、「わたしはある。」という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう、告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。」と話されました。(出エジプト記3章14節)神様がご自分について親しく表現されたメッセージです。

誰かが神様を生んだこともないし、神様を造ったこともないし、神様はただ創造主であり、自らおられる完全な存在であると言う意味です。作られた偶像とか、作られた形にはいつも限界があり、ミスが見られます。しかし神様は、そのように作られた存在ではなく、自らおられる完全な方であると言うことです。

(3)神様は全知全能です

出エジプト記を見ると、イスラエルの民たちをカナンの地に導かれる過程において、どれほどの驚くべきしるしと業を行なわれたのかが良く記されています。神様は、モーセと共におられると言うことを示すために、その力を現して下さったのです。十の災い以外にも、紅海を分けて進ませ(出エジプト記14章15節以下)、岩を打つと水が沸き(民数記20章8節)、マナとうずらを下さり(出エジプト記16章4節、13節)、等、数多い御業を施して下さったのです。全知全能な神様の御業は、旧約時代だけではなく、新約時代にも多く現れています。神様の一人子であるイエス様は、死んで四日たったラザロを生き返らせ、盲人の目を見えるようにし、各種の病人たち、悪霊にとりつかれている人々を解放し、風と波を静かにさせて下さいました。それだけではなく、神様は使徒たちやステパノ執事、ピリポ執事のように、神様を愛する人々を通じても、その全知全能なる力を現して下さいました。

(4)神様は聖書の著者です

 最近書店に行ってみると、本がたくさんありますが、その本が私たちにまことの命を与えたり、霊魂を生かしたり、創造主なる神様を表したり、天国と地獄を明らかに示したりするようなことはありません。ペテロの手紙第二1章20節〜21節、テモテの手紙第二3章16節には、聖書のすべての内容は神様の感動によって出来た事である、と記録されております。又、イザヤ書34章16節を見ると、「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」と言われています。さて、これは何を意味しているのでしょうか。

 聖書は旧約39巻と新約27巻の合わせて66巻からなり、記録した人は総34名と推察されています。記録された期間は、B.C.1500年から、A.D.100年までの約1600年間です。ところが不思議なことに、聖書はこのような長い期間にわたって色々な人の手で記録されたにも関わらず、その御言葉は初めから最後まで、一つも残らずに完全に一つの統一性があるのであります。このように出来たのは、聖霊様が記録者たちの心を支配されて、親しく集められたからで、聖書の著者が神様であるからです。

(5)聖書が真実であることは歴史が証明しています

 神様は旧約の時代に律法を下さいましたが、これだけではまことの子供を得ることは出来ず、律法は、ただ神様を現させるために、影の役割をしたにすぎません。それで神様は、聖書のあちらこちらを通して、メシヤの約束を下さり、時が満ちると約束の通りにイエス様をこの地に送って下さいました。

 それでは、旧約に預言されている神様の御言葉が、歴史の中でどのように成就されたのかを確認してみましょう。まず、女性の子孫から私たちの救い主がいらっしゃるということが創世記3章15節に出ており、それに対応する御言葉がガラテヤ書4章4節〜5節に記録されています。又、イエス様がおとめマリヤの身を借りて生まれることも、旧約に預言されていましたがイザヤ書7章14節。 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。(イザヤ7章14節)、その通り、イエス様はおとめマリヤの身を借りてこの地に生まれました。

又、ミカ書 5章2 節ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。旧約のミカ書5章2節に、ベツレヘムで生まれると記されている通りに、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました(マタイ2章1節)。 イエス様の誕生の時、ヘロデ王によって無罪の子供の血が流されることについては、エレミヤ31章15節に出ており、マタイの福音書2章16節には、その御言葉通りになった事が記録されています。

それだけではなく、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城された事(ゼカリヤ9章9節)、イエス様の復活と天に上られる事(詩16篇10節,68篇18節)、イスカリオテ・ユダの裏切り、(詩篇41篇9節、ゼカリヤ11章12節)を預言しましたが、新約の時代にその通りになりました。 

愛する皆さん。
神様は創造主であり、自らおられる全知全能な方です。そして聖書は、神様の御言葉であり、神様の御心と御旨がこの聖書66巻の中に含まれており、聖書が真実であることは歴史が証明しているのです。ですから、創造主である神様の御言葉が、記録された聖書を信じて神様の御言葉の通りに行なう、幸いな聖徒となられますように、主の御名によって願います。

人間を創造された神様 ◇  「十字架の道(2)」  
 

〈聖書箇所〉創世記1:27-28 2:7 

 1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

前の学びには創造主である神様は自らおられる方として、全知全能である聖書の著者であることと神様の御言葉が記録された聖書は、歴史が証明している様に真実であることをお話し致しました。今日は人間を創造された神様について詳しく調べてみます。

(1)進化論の虚構性

人類の起源又は生命の起源に対しては、今まで多くの議論と意見がありましたが、大きく分けるならば、創造論と進化論に区別することが出来ます。これは、科学的な証明に先立って、人間の常識と良心によって十分に選択することが出来ますが、神様が人間をどのように創造されたかに対してはっきりと知るために、進化論の虚構性について、もっと科学的に考察する必要があります。

創造主である神様の知恵と力によって創造されたと信じるのが創造論でありますが、反対に進化論はどうでしょうか。 進化論を決定的に確立したのは、チャールズ・ダーヴィンですが、1859年に「種の起源」という本を出版し、すべての生物は無生物から自然に発生して、下等動物から高等動物に進化し続けて、人は猿から進化したという仮定をしました。

しかし、フランスの有名な科学者であり、微生物学者であるパステルは、1860〜1866年の実験的な研究を通して、生命の自然発生説を否定し、生命は必ず生命体のみによって、発生するという事実を証明しました。
又、進化論はエネルギーの質的な衰退現象を現す熱力学第二法則にも違反(いはん)します。自然界のすべての現象は、エントロピーが増加する方向、すなわち無秩序となる方向に進むという法則によって、どんな物質もそのままおけば時間が経つにつれて腐敗するのです。

しかし、進化論によると、生命体を形成する基本元素が、特定な配列で出合い、窒素度の高いアミノ酸が作られて、これがさらに発展して、もっと窒素度の高い蛋白質となり、大変複雑でさらに窒素度の高い特別な融合物である細胞になったと言うのです。 これは、エネルギーの質的な衰退現象とは正反対です。このように進化論は自然界の基本法則に対して真正面から違反することであり、確率的にも不可能です。

又、化石を見てみましょう。化石というのは、地球上に存在した生物たちの死体や痕跡が急激な地殻の変動で推積物に埋没され、保存されて残っているものを言います。私たちは、その昔、地球上に生きていたという証拠として化石を見て、それを進化論の証拠であると分かっていますが、実はそうではありません。

この化石こそが、かえって生物がその種類に従って創造されたことをはっきり証明しているのです。今まで発見された化石を調べてみると、種と種の間には明らかに区分されて、中間形態の化石は一つも発見されていません。1980年、アメリカのシカゴで進化論国際学術会議が行われましたが、この時、進化論に対する根本的な修正がありました。すなわち、小進化の過程で大進化は起こり得ないという結論に達したのです。

進化論は、一世代に渡って共産主義と無神論の土台を成立させて、人間の尊厳性を破壊する有物論的価値観を形成させ人類に混乱と不幸を与えたのです。ですから、私たちは、進化論の虚構性を知るだけではなく、進化論以後の新しい科学の知識と資料を通して、創造論こそが最も科学的に適合しているという事実を知らなくてはなりません。

(2)人間を創造された神様

 創世記1章を見ると、神様の創造について書かれています。その中で、6日目に人間を創造され、全ての万物を支配する権勢を与えました。千年が一日のようであり、一日が千年のようであり、神様は6日間で天地万物を創造され7日目に安息されました。ですから、神様の歴史は6千年の人間耕作の後に、千年王国と百宝座大審判を経て、天国と地獄に分けられます。6千年の人間耕作とは、アダムが神様の御言葉に不従順して、善悪の知識の木の実を食べて罪人になり、エデンの園から追い出されたことを基点として、主が再臨されるまでの期間を指すのです。

それでは、神様は、人類の始祖であるアダムをどのように創造されたのでしょうか。創世記2:7を見ると、神様が土地のチリで人を形造り、その鼻に命の息を吹き込んで、そこで人は生き物となったと記されています。さて、土地には、人を形造っているすべての物質の成分があるという事実は、19世紀の始めに明らかにされました。この粘土を持って、神様の形に似せて人を造られたのです。そして、鼻に息を、すなわち、生きている気を吹き込み、生きている霊である生きものとなったのです。

ここで、息というのは神様の気で、力、能力、エネルギー、霊であると言えます。私たちは、無から有を創造されたという神様の御言葉を良く理解できない場合がありますが、蛍光灯が光を放つ過程を考えてみると、すぐ理解することが出来ます。蛍光灯に光をつけようとすれば、まず、蛍光灯がなくてはなりません。そして、蛍光灯が電源と連結されなくてはなりません。しかし、その状態では光を放つことは出来ないのです。スイッチを付け、電流が流れるようにしなくてはならないのです。

 このように、人を粘土で形造り、息を吹き込んで初めて人間が生きものとなったのです。神様は人間を造られる時、土地のちりで形造られたのです。その中には、五臓六腑と骨、血管など完璧に機能を果たすことの出来る神経も造られたのです。このような状態で息を吹き込んで、血が流され、呼吸するようになり、動くようになったのです。被造物である人間であっても知恵と知識があって、知能があるロボットまでも作っているのに、ましてや神様が土地で人を造られるとき、神様の力で生きて動く人間を造ることが出来ないでしょうか。
 全知全能の創造主神様は、天地万物を創造され、人間も創造されたという事実をはっきりと信じなくてはなりません。

人間を耕作される理由◇  「十字架の道(3)」  
 

〈聖書箇所〉マタイの福音書3:12
手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。

最初の学びには創造主である神様と聖書についてお話しして、2番目の学びには創造主である神様が人間を創造して万物の霊長として立てられたとお話ししました。
今日は神様がこの地に人間を耕作する理由と創造論と進化論に対する結論をお話し致します。 

(1)神様がこの地に人間を耕作される理由

聖書を見ると、多くの例えがありますが、このような例えは一つも意味のないものはありません。特に種を蒔く例えは、私たち人間が理解して悟ることが出来るように、神様がこの地に人間耕作を成されている理由などについておっしゃっています。創世記1章を見ると、天地万物の創造について記されています。神様が、天地万物を創造される以前から、天軍天使(天の御使い)たちが、神様と一緒におりました。このように、多くの天軍天使がいたにも関わらず、神様がこの地に人間を耕作されている理由は何でしょうか。

創世記6章5節を見ると、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」と書いてあります。しかし、人間が堕落して、このようになることを、神様は知らなくて人間を創造されたのではありません。全てのことを予知される神様は、すべてのことを見通しておられます。全知全能なる方でいらっしゃいます。

例えば、父母が子供を育てるために、苦労することを知っていながらも、愛を分かち合う子供を産んで育てます。同じように、神様も神性だけではなく人性ももっておられるので、喜怒哀楽とお互いに愛を分かち合うことが出来る子供を得るために人間を創造されたのです。そして、お互いに愛し合い、共に楽しくて幸せに生きることを願われたのです。

又、父母が苦労して子供を養育しますが、すべての子供が父母に孝行することはありません。子供が多ければ、孝行する子供もいるでしょうが、親不孝をして親の心を痛める子供もいるのです。父母は、このような痛みと苦労があることを知っていますが、子供たちが立派に成長して父母を喜ばせる者になることを期待して育ちます。同じように、神様もすべてのことをご存知ですが、全ての子供の中で誠に神様を愛する者が現れることを期待して、人間耕作を始められたのです。

天軍天使は、神様が命じられれば、無条件的に従順であって、ロボットのような存在です。自分の知恵をもって生きるのではなく、神様の命令の通り従うだけです。もし、二人の子供の中、一人の子供はロボットのように、何の感情もなく父母の言葉通り聞き従う子供がいるとしましょう。又、もう一人は、その反対で自分の自由意志で生活し、時には父母を悲しませる時もありますが、徐々に真心で親を愛し、親孝行する子供になるとすれば、父母の立場ではどちらのタイプの子供を選ぶのでしょうか。

科学が発達してロボットが多くの仕事を処理し、あらゆる機能を持って人に益を与えるとしても、ロボットを自分の子供より愛する親はいないはずです。ですから、神様は、この地で人間耕作をされたのです。そして、人間に自由意志と神様の真理の御言葉を与えて、何が善であり悪であるのか、どちらが救いの道であり、滅びの道であるのかをはっきりと明かして下さったのです。

さて、神様はこの地で人間を耕作されるために、なぜ、救いの道と滅びの道に分けられたのでしょうか。農夫が畑に麦の種を蒔いて、それを刈り取る時に畑を見れば、麦だけではなく殻も一緒にあるのが分かります。農夫は麦の種だけを蒔いて全てが麦になると期待しましたが、収穫のときに、殻も一緒にあったのです。人間を耕作される農夫である神様に、この麦と殻は何を意味するのでしょうか。

神様の立てられた創造の秩序と真理の御言葉を守り従って生きる人、善を行ない神様を愛する人、真心で神様を信じる人が麦です。しかし、神様を認めずに、善である神様の御言葉に逆らって自分の情欲と欲望だけを満たす人、真理に違反してあらゆる悪を行なう者、偶像崇拝する者、イエス・キリストを救い主として受け入れない人、嘘をつき、人を騙す者、偽りの者、約束を破る者、神様を侮る者は、全てが殻です。農夫は刈り取った麦を倉庫に入れます。

そして、何の役にも立たない殻は火で焼いて捨てたり肥料に使ったりします。それと同じように、神様は麦と殻を分けて、麦は天国に、殻は消えない火である地獄に永遠に投げ入れられるのです。(マタイ3章12節、マルコ9章43節〜48節)
創世記1章を見ると、神様の創造について記されています。6日目に、人間を創造され7日目には休まれました。又、ペテロの手紙第二3章8節には、一日は千年のようであり、千年は一日のようであるとおっしゃいました。


ここに、人間耕作の期間が霊的に隠されています。最初の人間であるアダムが墜落してから今まで、この地での神様が人間を耕作された時間は6千年が立ちました。その後の安息期間である千年王国が終わると、すぐ百宝座大審判の時が来ます。そして、麦は天国へ殻は永遠に消えない地獄の火に投げ入れられるのです。農夫は、種を蒔けば一回だけで終わるのではありません。

今年蒔いて刈り入れをして、来年にも続けて蒔いて刈り取る作業が続けられるのです。神様はアダムに、生命の種を与えました。その種は、精子と卵子の結合によって神様の生命体を成すようになります。このように子孫が繁栄して、その内に神様の子供たちが生まれ出るようになっています。

(2)進化論の虚構性

人間耕作の歴史が6千年であるにも関わらず、進化論者たちは地質学を利用して数十年前の人類の化石を進化の証拠として主張しています。数十万年前の骨、歯、頭、あごの骨などが出たと主張して、博物館に展示しています。しかし、幸いなことに、このような主張の虚構性が明らかになりつつあります。韓国創造科学会の会長であり韓国科学技術院の財科工学科の教授である金永吉博士の本や新聞等に載せられた内容を要約すると次の通りです。

進化論者たちが最古の人類であると主張しているジャーバ人の骨は、ドイツの探索隊によって事実でなく猿の骨であったことが明らかになりました。そればかりか、20万年前のネアンデルタル人は、ビタミンD不足の病の患者であったことが分かりました。そして、北京ユニオン医科大学解剖学教授であるブレク博士は、1922年と1939年の間に、北京の西南方で発見された38個の骨の中の一つを研究して、それが中国の古代人類猿もしくは人と類似的な動物の存在を証明すると主張しました。しかし、北京人に対するすべての資料は、1941年と1945年に全部なくされていました。ですから、証拠もないまま、進化論者たちの主張を裏づける根拠がありません。

愛する聖徒の皆さん。皆さん自身でも、人間の細胞と機関が精密に構成されているのが分かります。成人の身体の細胞数は約百億個になると言われています。神様は、このような人間に、人間耕作を通して、神様の子供に回復させようとされました。神様の御心を悟らせて、神様の御心に適う存在に作ろうとされたのです。その媒介体が、この聖書なのです。聖書には、神様の御心と愛が啓示されており、神様はどんな方であるかが啓示されています。又、神様が聖霊様を遣わしてくださって、私達が神様の御心を悟ることが出来るように助けて下さいます。

神様は栄光を受けられるべき方です。創造主であり、愛と公義に満ちた方です。私たちに救いの道を開いて下さっただけではなく、私達を真の子供として耕作されておられるのです。そして、永遠の天国に導いて永遠に生きるようにされる方です。ですから、私たちは、コリント人への手紙第一10章13節の御言葉のように、食べるにしても飲むにしても、ただ神様の栄光を現すためにしなさいと言われる通りに生きるべきです。ハレルヤ!  

善悪の木をおかれた理由(1)◇  「十字架の道(4)」  
 

〈聖書箇所〉創世記 2:16-17

16神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

「十字架の道」 四番目の時間です。
最初の学びには創造主である神様と聖書について、2番目の学びには人間を創造された神様について、3番目の学びには神様がこの地に人間を耕される理由について詳しく調べてみました。今日は、どのように罪が入ってくるようになったのかについてお話します。

(1)エデンの園でのアダムとエバ

神様がご自身の姿に似せて人を形造り、命の息をその鼻に吹き込まれたので、人が生きものとなりました。(創2章7節) 生きものというのは、生きている霊という意味であり、何も知らない無の状態の霊です。
例えば、神様が人に脳細胞を与え、脳細胞の中に記憶装置を置きました。

しかし、生まれたばかりの赤ん坊は、見たもの、聞いたもの、習ったものがないので、何の知識や知恵もない無の状態です。アダムが神様から命の息を吹き込まれて生きものとなった時は、生まれたばかりの赤ん坊のように無の状態としての生きている霊でした。それで神様はこのようなアダムをエデンの園に導き入れて、親しく、霊的な生命の知識を教えてくださいました。すなわち、義と光である真理そのものをアダムに教え、神様と交わることができる霊の人となるようにされたのです。

それでは、アダムはエデンの園でどのくらいの歳月を過ごしたのでしょうか?聖書には、その年代に対する記録はありませんが、数えきれない時間が経ちました。神様は、公平なだけではなく愛の神様であられるので、アダムが何も知らない時に善悪の木の実を取って食べないように、不従順の罪を犯さないように事前に十分に教えて下さったということを知らなければなりません。私達が幼い子供を養育する時もそのようにしているのではないでしょうか。

創世記 2章19節に「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。」と書いてありますから、アダムには、あらゆる生物に名前をつける程に、宇宙や自然などの知識が豊かであったことがわかります。
創世記1章28節に『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」と書いてあるように、呪われる以前のアダムには、数え切れない時間の間に神様と一緒に過ごしながら、子供達を産み、エデンの園で繁栄して生きていたのです。創世記 3章16節にみごもりの苦しみを大いに増すと言われた通りに、その以前にも出産の苦しみがあったことが分かります。
神は、人が一人でいることは良くないと思い、アダムのあばら骨一つを取って女をお造りになりました。ところが、あらゆる野の獣のうちで、一番狡猾であった蛇は、サタンに操られて女を惑わしました。悪魔の方からは、神様を敵だと思っているので、何としても神様に敵対しようとします。しかし、神様には勝てないので、神様の姿に似て造られた人を惑わして、滅びの道に引き落とそうとしたのです。それで、あらゆる野の獣のうちで一番狡猾であった蛇を使ったのです。

(2)不従順によって罪が入ってくる。

創世記 3章1節を見ると「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と蛇が女に質問をしました。女は、「神様は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と言われました」と答えました。本当は、神様が『善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』とおっしゃったのに、女はそのようには答えず、「あなたがたが死ぬといけないから」と不確実な答弁をしたのです。それで、サタンは、さらに積極的に惑わします。

さて、蛇はどのように女に近づいたのでしょう。また女は、なぜ蛇に惑わされたのでしょうか。その当時、蛇は清潔で狡猾と言われるほど賢いので、特別にエバの近くで過ごし、エバから愛されたと考えられます。女が惑わされた時、真理に基づいて答えず、不確実に答えたので、サタンはその心を揺さぶることが出来たのです。蛇を通して女を惑わしたサタンは、今も絶えず神様を信じる人々を惑わします。近い人達を通して、「一日くらいは、礼拝を休んでもいいよ。」「そんなに祈らなくても神様は全能な方だから全部わかるよ。」「ちょっとだけ飲んでもいいよ。」と誘惑します。

神様の御言葉では、安息日を覚えて聖なる日として守りなさいとおっしゃっています。又、顔に汗を流して糧を得なさいと言われたように、切に呼び求めなさいとおっしゃっているのです。ですから、神様の御言葉を自分の考えに基づいて、自分自身に合わせて判断してはなりません。女がこのように神様の言葉を曲げて答えることを見て、蛇は「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 (創 3章4節-5節) と言い、引続き誘惑します。

サタンは人間の思いを通して働き、心の欲が生じるようにさせるから、女はその木が以前とは違って見え始めました。「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」とある通りです。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与え、そして夫も食べました。その結果、罪からの報酬は死であると言われたように、死の地獄に行くしかない存在に転落しました。
さて、エデンの園で何の乏しいこともなく豊かに暮らしていたアダムとエバは、なぜ神様に不従順の罪を犯して不幸の道に落ちたのでしょうか? 次回には、罪が入ってきた過程と善悪の木を置かれた理由についてお話しを致します。

善悪の木をおかれた理由(2)◇   「十字架の道(5)」  
 

聖書箇所〉創世記 2:16-17

16神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17 しかし、は取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」


「十字架の道」5番目の学びです。愛と公義の神様が善悪の木をおかれた理由をわからないと神様に対して誤解し、御心をわからないと、正しい信仰生活出来ないので、今日は前の時間に続いて、なぜアダムはエデンの園で足りないものがなくて暮らしたのに、善悪の知識の木の実を取って食べ、罪を犯したのか、即ち、どうして罪が入って来たのか、罪の始めについてお話しを致します。 

(1)自由意志を与えられた神様

神様は人を創造された時に、人間を神様に似るようにお造りになり、万物の霊長として立てられました。ですから、創世記 2章7節を見ると、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とおっしゃっています。あらゆる生物の中で、神様は唯一、人間だけに理性を与えて知恵が発達するようにされ、秩序と言語文明、信仰と希望、愛を与えられました。天使たちのように無条件に服従するものではなく、自由意志を与えて下さったのです。人間に自由意志を与えたので、善を受け入れれば善を行い、悪を受け入れれば悪を行なうようになります。聖書をじっくりとお読みになれば、まさにその自由意志によって善悪の木の実を取って食べ、不従順の罪を犯したことが分かります。

ある人は、人間の心に悪があったために、善悪の木の実を取って食べたのではないのかと言いますが、そうではありません。何の悪もない真理の状態、善の状態で、善悪の木の実を取って食べたのです。相対性によって、悪があるから始めて善があります。悪を全く知らない状態では、善が何かについてもわからないのです。

皆様が一度考えてご覧ください。天地万物を創造された神様は、人間を創造された後に、東の方にエデンの園を設け、そこに人間を置かれました。そして神である主は、その土地に見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせました。そして、園の中央には、命の木、それから善悪の知識の木とを生えさせました。

あらゆる木の中から最も尊いものは命の木であったので、いのちの木を中央に置かれたのです。さて、何故いのちの木だけではなく、善悪を知らせる善悪の知識の木を共に置かれたのでしょうか。何故「善悪の知識の実を食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と仰せられて、善悪の知識の木を置かれたのでしょうか。

全知全能なる神様は、人間がそれを取って食べてしまうことをご存知でなかったのでしょうか。もしくは、神様に悪があって、有害なものをわざと置かれて人間を試みたのでしょうか。ここには、明らかに神様の御心が現れています。すなわち、相対性を悟らせてくださる神様のご摂理が隠されています。相対性を知らなければ、真に価値あるものを知らないからです。つまり、食べると死ぬ善悪の知識の木を通して、そのそばに置かれている命の木がいかに貴重なものなのかを悟らせるためでした。

(2)不従順によって罪が入って来る

神様は、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章16節-17節)」と明らかに教えてくださいました。神様は、善悪の木を置いて神様と人間との間に秩序を立てられ、人間に自由意志を与えたのです。

ところが、数え切れない長い歳月が経って、神様の御言葉をないがしろにしました。結局、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。神様は、秩序を建てられましたが、不従順によって悪を選んだあげく、人間はその心に罪をはらむようになりました。
不従順の前には、悪はありませんでしたが、不従順となった後に、つまり、悪を行なうことによって悪が心に入ってきたということです。始めから悪の性質があって善悪の木の実を食べたのではなく、善悪の木の実を取って食べたので悪が入ってきた、という意味なのです。

例えば、お行儀が悪く、よく喧嘩をする子供がいるとしましょう。始めからそのような子供ではなかったでしょう。始めには、単純に好奇心で他人のまねをします。悪を知らない状態で自分より幼い子を殴ったり、悪口を言ったり、その悪の性質が次第に心の中に根を張ります。

ですから、善悪の知識の木の実を取って食べたことは、心に自由意志があったからであり、それを行なって悪が発生したのです。善悪の知識の木の実を取って食べたことによって、悪を成立させたのであり、それで始めて罪が生じたのです。神様は、善だけを教えてくださったのに、人間は獣の中で最も狡猾な蛇の誘惑を受けて、神様の御言葉に不従順して善悪の知識の木の実を取って食べました。それで、善と悪が何かを知るようになりました。

このように惑わした者がサタンであり、狡猾な蛇でした。それで、聖書の創世記では、初めから闇と光があったと語られました。闇は罪であり、悪魔に属する世界であり、光は真理の世界であり、善と義そのものとして、創造主である神様に属する世界です。

アダムとエバは、自分たちの自由意志によって神様に不従順になって罪を犯し、悪魔に属する者になりました。
それで、神様は、自由意志の中で誠に神様に従順となる神様のまことの子供を得るために、この世で人間を耕作されているのです。

(3)善悪の知識の木を置かれた理由

善悪の木の実を食べる以前のアダムは、果して幸せだったのでしょうか?
相対性である苦しみ、貧乏、病、死を知らないために、まことの幸福と愛が何かを知らなかったのです。ですから、エデンの園でアダムの生活は、「幸せだった」という言葉が聖書にありません。ただ何も乏しいことなく、豊かに暮らしていただけでした。もし、人間の心に愛がなければ、その人の人生は、楽しいでしょうか。実を取って食べる以前のアダムは、この愛を知らなかったのです。愛というものをどう分かるようになりますか。それは、憎しみという相対性を通じて知るようになりました。

善があるから悪があり、光があるから暗闇があるのです。幸福があるので不幸があり、男子がいるから女子がいるのです。試練と艱難を体験して、始めて試練や艱難がない人生が、どれほど良いことなのかを知るようになります。病の苦しみを体験した人が健康の重要性を知ることができるのです。死と地獄があることを知っているために、生命の貴重さと天国を下さった神様に真心から感謝するようになります。

ですから、善悪の知識の木の実を食べて霊の人から肉の人に落ちたので、善が何か、悪が何かを体験する人々は、真の幸福が何と価値あるものか、真の愛が何と尊いものなのかを悟ります。真の喜び、健康がいかに大事なことなのかをしみじみ感じることが出来るのです。なぜなら、この世で生きていながら、罪を犯すことがその人に苦しみを与えて、それによって、あらゆる災い、艱難、試練、病、貧乏などをもたらすのかを体験するからです。この世で喜怒哀楽を味わった後、涙、悲しみ、病、死がない天国で永遠に生きる時、天国で味わう幸福、愛、喜びを永遠に真心で感謝することができます。 

ですから私達は、神様が善悪の知識の木を置かざるを得なかった理由と摂理をはっきり悟って、更に神様に感謝して神の御心通りに行なって、天国を所有する者にならなければならないです。

愛する聖徒の皆さん。
神様が善悪の知識の木を置かれた摂理を正しく悟れば、この世で神様の耕作を良い心をもって受けることができます。神様はわざと人間を苦しめて滅ぼさせるために置かれたのではありません。 又、アダムが善悪の知識の木の実を食べることを知らずに置かれたことでもありません。私たちを永遠の幸福へ招待するために、誠の命を永遠に与えるために、人間耕作の深い摂理の中で善悪の知識の木を置かれたのです。

ですから、私達は、誠の子供を得て永遠に生きようとされる創造主である神様の御心を悟って、明らかに存在している天国を信じて、天国への望みを持って、悪魔が惑わす悪、罪と戦って自分に負けず勝利して、最初に神様の形に似て造られた聖い心を回復しなければなりません。イエス・キリストのご再臨の時が近づいているだけに、聖なる花嫁としての準備をして、天から聖なる聖徒たちを呼ばれる時、皆様の名前が呼ばれるようにイエス・キリストの御名によってお祈り致します。ハレルヤ!

天地の創造の前から隠された奥義(1)◇  「十字架の道(6)」  
 

〈聖書箇所〉聖書本文:コリントT 2:6-7

6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

「十字架の道」6番目の学びです。ひとりの人の不従順によって多くの人が永遠の滅びの道に行くのを予知しておられた神様は、私たちを救われるために備えられた摂理がありました。それが天地創造の前から隠されていた奥義です。すると奥義について調べて見ましょう。 
(1)サタンの誘惑を受けて罪が入って来る

アダムとエバを誘惑したサタンは、私達を誘惑する時も同じ方法によって近づきます。サタンの誘惑に惑わされないためには、真理の御言葉の上に堅く立って、いかなる場合にも疑わない信仰を示さなければならないのに、「本当にそうであろうか。」などと疑いが残っているためにサタンが継続して働くのです。例えば、ある木を抜こうとするとき、木をつかんで動かしてみて根が深く張っていてしっかり立っている木ならば抜こうとしませんが、少しでも揺れ動く木は、ついには抜かれてしまいます。

サタンが試みて誘惑する時も、「信じます」という真理の上に堅く立っていれば、サタンは退くしかないです。しかし、信仰に堅く立っていないために、試みられたり、神を遠ざけたり、熱心に行えなかったりするのです。ですから、岩の上に立てられた家のように、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけるような試練が来ても倒れません。(マタイ福音7章24節-27節) しかし、まことに信じることが出来ずに、疑うので誘惑されるのです。

神様は、アダムとエバに善悪の知識の木の実を取って食べる時には「必ず死ぬ」とおっしゃったのに、へびの誘惑を受けたエバが神様の御言葉を変えて「あなたがたが死ぬといけないから。」と答えたので、へびは「あなたがたは決して死にません。」と神様の御言葉を完全に変えて誘惑してきました。

すなわち、真理の答えをしなかったために、再度、誘惑してより一層疑いを呼びおこして「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言うので、エバがその木を見ると以前には死の木でしたが、今はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましく見えました。

聖霊に満たされ真理に従う時は、非真理が嫌いですが、サタンの誘惑を受けて聖霊の力を失えば世の中の非真理もまことに食べるのに良く、目に慕わしく、好ましく感じられます。そのように誘惑されれば、礼拝に一度も休んだことがなかったのに、一度、二度休むようになって、世の非真理にまみれていくようになります。世の非真理に染まっていくほど、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などが入って来るようになります。

(2)罪の結果によって人間とへびに呪いが下される

 神様はアダムに地の全てのものを治める権勢を与えながら、善悪の木だけは食べてはいけません、と警告しましたが、それは神様の絶対主権のしるしです。地の全てのものを支配して治めるものの、創造主である神様だけを恐れながら従いなさいとの御言葉です。このように神様は秩序の神なので、秩序を破ることを認めません。必ず秩序に従って従順する時にだけ神様が働いてくださいます。結局アダムが不従順して善悪の木の実を取って食べたことによって、人類の悲劇が始まりました。これを肉的に見る時は、悲劇ですが霊的に見る時は祝福です。なぜなら、この中には私達の栄光のために天地創造の前から隠された奥義があるからです。(コリントT2章8節)。

  神様は善悪の木の実を取って食べるその時は必ず死ぬとして、ローマ書6章23節にも、罪から来る報酬は死であると言われているように、罪を犯した人は死なざるを得なかったのです。神様が人のために別に作ったエデンの園は、腐らない美しくて永遠の地、死も苦痛もない地であり、生命の果物がたくさん実っていたので、汗を流さなくても思う存分食べて生きることができる所でした。

しかし、不従順したアダムはこれ以上エデンの園に暮らすことが出来ずに、一生苦労して食糧を得なければならないこの地へ追放されてしまったのです。(創世記 3章17節-19節)。 私達がこの呪いから解放されるには、原点へ戻らなくてはなりません。失った父の姿を回復するぶんだけ、呪いから抜け出すことです。 

 またエバを誘惑したへびには、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。と呪いが下されました。(創世記 3章14節)ちりを食べなさいと言われた時のちりとは、ちりで創られた人間を意味しています。私達が神様の御言葉の中で生きられない時、サタンは、神様に訴えて私達が真理を破ったぶんだけ試練や様々な問題をもたらして、私達を食べて生きるのです。

それでペテロT5章8節-9節には「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」と勧告しています。御言葉をどんなに聞いても守り行わずに心に割礼を受けないために、サタンに飲み込まれてしまうのですから、サタンに勝つためには御言葉を守って行なわなければなりません。これがまさに信仰です。光の中に、真理の中にとどまり、神様の御心に従順さえすればいつも勝利することが出来るのです。

(3)土地を買い戻す法則

 人間は皆がアダムの血を受けついたので、罪人です。(ローマ書 5章12節) 生まれたばかりの赤ん坊には罪がありませんか? いえ、彼にも父母からの気質を受けて生まれたので原罪があります。一歳にもなっていない子供でも、お母さんがその子供の前で他の子供におっぱいを飲ませると、おっぱいを飲んでいる子供を押しのけて、お母さんを自分の方へ引っ張ります。一歳にもなっていない赤ん坊に、いつ妬みを教えたり、憎しみを植え付けて欲の心を教えられたのでしょうか。

父母からの生まれ付きであるので、これがまさに原罪です。したがって、すべての人は罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることが出来なくなったのです。(ローマ書3章23節) それではこの事をどうしたら良いのでしょうか。
 使徒16章30節-31節を見ると、監獄を守った看守が、パウロとシラスとの前に「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言ったように、私達にもこのような質問が必要です。ルカの福音書4章5節-7節には、サタンが40日断食を終えたイエス様を誘惑する場面があります。

エバを誘惑したサタンは、イエス様を誘惑する時にあらゆる権勢が自分に属したと言いました。すなわち、これら全ての権勢は、神様が善悪の知識の木の実を取って食べる以前のアダムに与えられたことであり、アダムの不従順によりサタンに奪われたものです。

 ローマ書 6章16節に「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷となり、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」と言われたように、罪に従うならば、悪魔サタンの奴隷となって死に至り、真理である神様の御言葉に従うならば、義人となって天国に行きます。罪に従うので、神様が顔をそむけるのであり、聞いて知っていても行なわないから祈りと断食をしても応答がないのです。私たちは、十字架の道を正しく悟り、義人になるべきです。悪魔サタンがちりで創造された人々を食べながら、この世をあらゆる罪と不法によって率いています。

歳月が流れるほど、学校も多くなり、善を教えたり、道徳、倫理を教える先生も多くなったのに、より清潔な社会、美しい社会にはならなくて、反対に罪や悪が溢れていることは闇の支配者悪魔サタンが世の中を死の道に率いていくからです。神様は天地創造の前から既にこれを予知なさって、本来神様の民である人間を悪魔サタンの手からとりもどすための摂理の道を置いてくださいました。しかしこれは、いいかげんになることではなく、霊界の法則に従ってなされるようになります。

アダムが悪魔サタンに奪われた権勢をとりもどす道は、霊界の法則の中から見つけなければなりません。すなわち、私達がなくした全てのものをとりもどす方法は、まさに土地を買い戻す法則です。レビ記25章23節-25節を見ると「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とおっしゃっています。霊界の法則によれば、私達全ての人類は、悪魔サタンの子供になって死の道へ行くしかなかったのです。

すなわち、私達は土地を売るしかなかったし、自らは土地を買い戻す力がなく、私達の罪を代贖してくれることか出きる親類が必要でした。創世記3章19節には「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」とし、23節には「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」としましたが、この御言葉は土地を買い戻す法と私達の霊魂の問題に直接的な関連性を持っているという根拠になります。すなわち、土地は人間を意味するため、イエス様も人の心を土地(畑)に例えられたのです。

したがって、私達の罪を代贖して私達の土地を買い戻すことが出来る者の条件は、第1は、人でなければなりません。第2は、アダムの子孫であってはいけません。第3は、罪があってはいけません。第4は、命までも与えることが出来る無限な愛の犠牲がなければならないのです。この四つの条件をすべて揃えてこそ、土地を買い戻す法測に相応しい方であるので、この方はまさに私達の罪を代贖してくださったイエス・キリストです。 このことについては具体的に次の学びに説明致します。

天地の創造の前から隠された奥義(2)◇  「十字架の道(7)」  
 

〈聖書箇所〉聖書本文:コリントT 2:6-7

6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

「十字架の道」7番目の学びです。前の学びに続いて「天地創造の前から隠されていた奥義」について、より具体的に調べて見ることにします。

(1)天地創造の前から隠されていた奥義

はじめの人アダムは神様の御言葉に不従順し、罪に従う悪魔のしもべとなったので、神様から授けられた全ての権勢を悪魔に引き渡してしまいました。従って悪魔は、天下を治める権勢を握るようになりました。(ルカ4章5節−6節)ですから、アダムの子孫はみなが殺人、紛争、騙し、妬み、姦淫、病など、あらゆる試練と艱難をもたらしてくる悪魔の策略に惑わされて、死に向かって歩まざるをえなくなってしまいました。

神様はこのような人々を哀れみ愛されたので、死から救うための計画を、天地創造の以前からすでに備えておられました。すなわち、宇宙万物を創造され、この世に人間を耕作するための全ての計画を立て、人間が不従順して死の道に行くことを予知しておられたので、人類を救うための摂理をも天地創造の以前から示しておられたのです。そして、この天地創造の前から隠されていた奥義がイエス・キリストなのです。それでは、なぜ「奥義」と言われるのでしょうか。それは、イエス・キリストを十字架に釘付けにすることによって、人間の救いが成就されると言うことを悪魔が知っていたならば、イエス様を十字架に釘付けにすることはしなかったはずだからです。

それでは、木の十字架にはどのような奥義が隠されているのでしょうか。「十字架」と言えば、イエス様を想像します。イエス様が私達の罪のために両手・両足を十字架に釘付けされ、体中の血をみな流された後、亡くなって三日目に復活され、天に昇り、私達を伴って行くために再び来られると言うことと、このことを信じる者は救われるのだと言うことを知っていてイエス・キリストを偲ぶ(しのぶ)のです。しかし、このように知っていると言うだけでは私達を救いに至らせる力はなく、救われる条件が何であるかを悟り、その内容を直に食べて見てこそ、心にまことの信仰が生じて救いに至るのですから、そのようにして実のある信者となるべきです。

(2)土地を買い戻すのに相応しい条件

前の学びでは霊界の法則に従って、私達の罪が贖われるためには、四つの条件が満たされなくてはならないと言いました。すなわち、証印を解く者、又は土地を買い戻せる者はイエス・キリストですが、なぜ彼がこの資格・条件に相応しいのかについて調べて見たいと思います。
1)私達の罪を贖うのは、人でなくてはなりません。

罪から来る報酬は死(ローマ6章23節)ですから、罪を犯したアダムの子孫はみな地獄へ行くしかなかったのです。又、コリント人への手紙・第一・15章21節〜22節に「死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまたひとりの人によってこなければならない」とあり、人の罪は人だけが贖えることを示しています。これがまさに霊界の法則です。もう一度言うならば、死人に等しい罪人たちが、復活して命を得て永遠のいのちを得ようとすれば、その罪が消されなければならないのです。又、この場合、罪を贖うのは、レビ記25章25節にも言われているように、その人に一番近い者(近親者)によらなくてはならないと言うことです。

神はイスラエルの民が土地を売買する時、契約書を作成するように命じました。我が国の不動産売買法も、所有権が移される経路を契約書に詳しく書くように定められていますが、イスラエルでも契約に関する条件を詳しく記した契約書2部を作って、売り手と買い手が判を押して印封するようにしています。それから律法に従って契約書の1部は宮の蔵に収め、1部は宮の入口に掲示されます。そして、土地を買い戻そうとする時は、掲示されたものを見て、そこに記されている要求条件に従って支払を終えてから、宮の倉に収めてある契約書の印封を解いて破ってしまえば事が済みます。このようにして土地は元の所有者に戻ります。

このように、天下万物を支配し治める権勢が悪魔に引き渡される時にも、その移転に関する契約書が、神様と悪魔の間で作成されたのです。神様が人を創造された時、アダムに万物を治める権勢だけを授けることにとどめて、宇宙万物の元々の主人は神様でした。ですから、アダムが悪魔に従順して天下を治める権勢を引き渡してしまってからは、これに関する契約は、悪魔と元の主人の神様との間で行なわれたのです。

律法は土地を永遠に売ることが出来ないように定められていて、土地を買い戻せる力ある者が現れた時には買い戻すことが出来るようになっていましたが、天にも地にも地の下にも、土地を買い戻すのに相応しい者は誰もいませんでした。(黙示録5章1節−6節)つまり、土地を買い戻すためには、人の近親者でなければなりませんが、人はみな罪人であり、天には天軍天使だけであり、地の下には罪人たちと悪魔がひしめいているので、土地を買い戻せる者はどこにもいないのです。

それゆえ、ヨハネが慟哭し、激しく泣いたと言うことです。(黙示録5章4節)しかしこの時、長老の中の一人が、その封印を解くのに相応しい者はダビデの根から生まれたイエス・キリストであると言いました。(黙示録5章5節−6節、使徒13章22節−23節)そして、御言葉が肉体となり、私達の中に来られた神様の一人子であられるイエス・キリスト(ヨハネ1章1節−14節)は、全世界の罪のために贖いの供えもの(ヨハネ・第一・2章2節)になられて、2000年前十字架の上で亡くなり、三日目に復活なさったのです。

2)アダムの子孫であってはなりません。

アダムの子孫はみな現在を担って生まれた罪人であるので、他の人の罪を贖うことが出来ませんが、イエス様は精子と卵子の結合によって体内に宿られたのではなく、聖霊によって宿られたのであります。(マタイ1章18節−21節)つまり、聖霊によって宿られ生まれたイエス様だけが、原罪がないと言うことなのです。全ての人は親の気を受けて生まれますので、どんな幼い子供でも原罪があります。にっこり笑う赤ちゃんに何の悪があり、罪があろうかと思う方もおられるでしょう。しかし幼い子供も成長するに従って、次第にその罪があらわになるのを見ることが出来ます。
例えば、1才に満たない赤ちゃんの側で、その赤ちゃんの母親の乳を隣の家の赤ちゃんにふくませて見ると、暴れたり泣いたりしながら、ついには隣の赤ちゃんを母親から離してしまいます。このような姿一つ見ても、憎しみ、猜疑、妬みを芽生えさせたり、欲について教えたりしたことがないにも関わらず、彼らの内にも悪の欠片(かけら)が潜んでいるのを悟ることが出来ます。イエス様が、もしこのような原罪を担って生まれたのならば、私達の罪を贖うことは出来なかったでしょうが、主は神様の摂理のうちで聖霊によって体内に宿られたのです。

3)宿敵、悪魔に勝てる力がなくてはなりません。

宿敵、悪魔に勝ってそれを治めることが出来る権勢とは、まさに原罪や自己罪がないと言うことであります。悪霊に取り付かれた者が、いかに乱暴を働いたとしても、信仰があって神様との間に罪という壁がない人がイエス・キリストの御名によって命じれば、悪魔は直ちに鎮まることを見ることが出来ます。しかし、肉体的に強い巨人であっても、神様の愛を受けられない者であれば、むしろ悪魔にもてあそばれてしまいます。ですから、神様との間の壁となる全てのものを打ち壊し、神様の愛を受けて悪魔を征服し治める人にならなくてはなりません。宿敵、悪魔を治める権勢は、罪を捨てた後に現れます。

罪を捨てることが力と権勢ですから、心を尽くして悔い改めることによって、神様との間に立ちはだかっている罪の壁を崩してしまえば、病が去り、試練と艱難が退き、答えを得ることが出来ます。もし悪魔が少しもひるまないならば、それは私達の側に力がないからです。つまり、罪があるゆえに力がないと言うことです。例えば、虫なども汚く薄暗いところに棲息しているものではありませんか。同じように、私達の心が優しく、愛に溢れ、清らかであれば、いつも満たされており、祈る毎にお答えをも頂くことが出来ます。

 それでは、果たして私達の主は、全く罪のない方であられたのでしょうか? 私達の救い主イエス様は、アダムの子孫ではありませんから原罪がないのです。又、神様の法則に従って暮らしを営んできた親の元で育ったのですから、幼い頃から律法を守り、行なう生活をされました。その様子の一部が、ルカの福音書2章21節−24節に記されています。主は十字架に架かられて亡くなるまで、まことにどのような自己罪も犯すことなく、律法そのままの生き方をしながら、愛を完成なさったのです。

 ですから、ペテロへの手紙・第一・2章22節−24節を見ると「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と言われており、ヘブル人への手紙7章26節を見ると「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」と言われています。

 この世に生まれて死んでいった名のある聖人、君子の中で、私達の主のように少しも罪を犯さなかった人はおられるのでしょうか? 釈迦もどうすれば肉体から解かれるかと、罪のために苦しみ悩みながら苦行の道を歩みました。孔子も誤りと過ちがあった人でありますし、ソクラテスもやはり罪人でありました。それなのに、原罪も自己罪もない聖なる主様を四大聖人の一人として、被造物である人間たちと同格に取り扱うことが出来るのでありましょうか? 

決してそうは出来ません。「イエス・キリスト以外には天下の誰にも、私達を救える名は与えられていない」(使徒4章12節)と言われているのをはっきりと悟るべきです。以上3つの条件まで説明致しました。次の時間には、4番目の条件と、これらの条件を信じることによって、どのように救いに至るのかについて証しして見ることにします。

「イエス様がなぜ私達の救い主になられるのか」◇「十字架の道(8)」  
 

〈聖書箇所〉使徒の働き4:11−12


4:11 「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。」というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

『※参考:礎は隅の親石』
前の学びでは、私達の罪を贖う四つの資格、条件の中で、三番目までを説明致しました。今日は終わりの四番目の条件と、なぜイエス・キリストを信じれば罪が赦されて、救いを受けられるのかについて証しして行くことにします。
(1)罪を贖うもの、つまり、土地を買い戻すものになることが出来る資格

1)人でなければなりません。
2)アダムの子孫であってはなりません。
3)力が強くなければなりません。
4)命まで与えるほどの愛がなければなりません。

神様と私達の間に立ちはだかっている罪の壁によって、私達は神様を見ることが出来ません。私達は死である地獄に行くしかなかったのですが、この罪の壁を崩すには、あらゆる嘲りと蔑みと賎しみを身をもって受けながら、木の十字架に釘付けられて、水と血を流してくれる犠牲的な愛が必要でした。イエス様は人として来られ、アダムの子孫ではなく、力強くあられました。しかし、もし、イエス様に愛がなかったのならば、私達の罪を贖うことが出来ず、私達は悪魔の子から神様の子に戻ることが出来ないのです。この愛は、贖いの供え物であり、木の十字架に釘付けられる犠牲によるからです。

それでは、なぜイエス様が木にかけられなければならなかったのでしょうか? 全ての人は「罪から来る報酬は死」であるという律法の呪いの下におかれていますので、この律法の呪いから贖い出されるためには、木にかけられなければならないという霊界の法則によるからです。(ガラテヤ3章13)それでは、血はなぜ流されなければならなかったのでしょうか? 

レビ記17章11−14を見ると、命に血があるゆえに血が罪を贖うと言われていますし、ヘブル人への手紙9章22には、血を流すことがなくては、罪の赦しはありえないとあり、血は命と一体であるからです。従って、永遠に生きる霊的生命を得るためには、霊に属する血、つまり原罪と自己罪がない血が必要でしたから、イエス様の聖なる血によって私達の罪が贖われて、永遠に生きるまことの命を得ることが出来たのです。

このように、神様は罪人たちのために、一人子も惜しまずに与えて下さる、大きな愛を与えて下さいました。そして、イエス様は神様の意に従って、神様と私達の間において、贖いの供え物になって下さり、自分の命までも与えて私達を愛されました。つまり、神様は自分の一人子を犠牲にしてまでも、私達を愛する証しを示して下さったのです。(ローマ5章8節)この愛を悟って信じるならば、神様を失望させず、神様の戒めを守って、神様の国と義のために生き、熱心に霊魂を救い、互いに愛すべきでしょう。

ダビデの根が勝ったと言われた通り、私達は土地買い戻しに相応しい四つの条件を全て備えている方はイエス・キリストお一人だけであり、他のものによっては決して救いを得られないと言う事実をはっきり知ることが出来ました。従って、私達はイエス・キリストを迎え入れるもの、すなわち、その御名を信じる者になり、神様の子供としての権勢を得て、救いの確信を持ち、宿敵悪魔に対抗して勝利を治める幸いある生活を送るべきです。

(2)救い主になられるイエス・キリスト

神様はエバを誘惑した蛇を呪われた時、すでにイエス様が十字架に釘付けられて亡くなり、死の権勢に打ち勝って復活されることが予言されています。(創世記3章15節)時が至って、神様の摂理の通りに、天地創造の前から隠されていた奥義であるキリストが、ベツレヘムでお生まれになりました。この知らせは東方の博士たちによってヘロデ王の耳にまで入りました。すると宿敵、悪魔がヘロデ王をそそのかしたので、ヘロデ王はユダヤ人の王に生まれた子供を生かしておいては、自分の王位が危ないと思い詰め、ベツレヘムとその周りの全ての地にいる2才以下の男の子をみな殺すように命じました。  

 しかし、悪魔の策略を知らないはずのない神様は、イエス様の肉体の父であるヨセフの夢に現れてエジプトに逃げさせました。悪魔は自分の計略が失敗すると、さらに律法を守って行ない、人に教える大祭司、長老、律法学者、及びパリサイ人などをそそのかして、イエス様を捕らえて殺す計略をめぐらしました。

イエス様がお働きになる間は、万事如才(ばんじじょさい)なく立ち回り、その上神様が守って下さったので、彼らは手出しが出来ませんでしたが、時が来て、神様が赦すと彼らはイエス様を捕らえて鞭で打ち、いばらの冠をかぶらせて十字架に釘付けし、むごたらしく殺したのです。ここで、私達は神様の知恵を学ぶことが出来ます。コリント人への手紙・第一・2章6節−9節で言われたように、それは愛の知恵ではなく、天地創造の前から隠されていた神の知恵であって、時が満ちたために現されたのです。ですから、悪者たちは自らの悪によって滅びたのです。悪魔も結局自分の悪知恵に負けたのです。つまり、以前にはアダムが霊界の掟を犯してしまいました。

悪者たちをそそのかして、原罪も自己罪もないイエス様を十字架に釘付けて殺してしまったことが、そのまま宿敵、悪魔の大失策になりました。それで、悪魔はイエス・キリストを信じる人々を、再び神様の子供として引き渡さざるを得なくなってしまいました。もし、宿敵、悪魔がこのような愛の摂理を知っていたならば、イエス様を十字架に釘付けて殺すはずがなかったのですから、神様はこのことを天地創造の前から奥義として隠していたのです。神様は光の中で生きていく子供、神様に似た子供を望まれたので、この世に人間を耕作しておられますが、その過程こそが私達が信仰によって救いを得る働きです。イエス様は真理と光の中でのみ生きておられ、父なる神様の意志に基づいて、ただ「はい」「アーメン」と従順だけおっしゃいました。

 このように、真理そのものであられる主が、私達の中に入って来られると、非真理は消されてしまいますが、これは唯一、信仰によってのみなされるのです。信仰によってのみ真理の人になりますし、真理の人になると言うことは、主の心に相応しく主と一体になることであり、これがまさに神様が望むまことの子供の姿です。使徒の働き16章31節を見ると「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます。」と言われていますが、「イエス」と言う名前は「自分の民を自らの罪から救う」と言う意味であり、「主」というのは私達の罪を贖って下さって、死から復活して永遠のいのちの道に導いて下さる救い主を意味しています。

ですから、イエス様が救い主であられることを、心に銘じて信じる者であれば、それを宣べ伝えずにはいられない者になるでしょうし、自分だけ救いを得るのではなく、家族までも救いを得られるようになるという御言葉です。

 黙示録3章20節には、「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と言われました。つまり、予定された人だけでなく、誰でも思惑の戸をこわして、信仰に基づく心の戸を開くならば、主がその中に来てくださり、永遠に共にいるということです。

ヨハネの福音書3章5節には「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われましたので、永生の水(ヨハネ4章14節)すなわち、神様の御言葉により、再び生まれて、真理の中で自己を変えさせなくてはなりません。聖霊が臨まなければ救い主を信じることが出来ず、真理の中で生きることも出来ず、悪魔に対抗することも出来ません。しかし、イエス様が救い主であられることを心に銘じて信じて、迎え入れた者は、聖霊が授けられてその名が天国のいのちの書に記され(ルカ10章20節)、天国の民になりましたので(ピリピ3章20節)、金銭の誘惑や世の中の誘惑に陥ることなく、天国の法に従って生きていくべきです。


 そうすれば、霊魂が健やかになるほどに、全てが良くなり、強健になって日毎に聖潔になり、祝福を受け、天国でも大きな賞をもらえる者になるでしょう。イエス・キリストを迎え入れることによって、罪が赦され、復活して天国に行くという私達の栄光のため、イエス様が十字架を背負った奥義を、誰が想像したことでしょう。(コリント人への手紙・第一・2章6節−9節)人の心では考えられなかった神様の知恵から出たこの奥義を、私達は深く悟りましたので、それを心に刻んで、いつも感謝が溢れる生活を送るべきでしょう

◇飼い葉桶に寝かせたイエス◇ 「十字架の道(9)」  
 

〈聖書箇所〉ルカの福音書2:1─7

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

神様の御子として肉体を持ってこの地へ来られたイエス・キリストは神様の御姿であられる方として(ピリピ2章6節)天地万物の支配者であられながら王の王である、主の主である方です(ヨハネの黙示録19章16節)。
今日は十字架の道 九番目の学びで主様が肉体を着て、この地に生まれる時に何故獣の飼い葉桶に寝かせたのか、その霊的な意味について、お話しをいたします。

(1)獣の飼い葉桶に寝かせたイエス様 

本文を見ると、ロ─マの皇帝カイザル.アウグストが、全世界の人口調査のための登録をするように命じたので、全ての人々が人口登録をすべく、それぞれ自分の町に帰って行くことが書かれています。その時、ロ─マ統治(治める)下におかれていたユダヤ人も自分の町、または本籍地とみなされる所に登録に行きました。ガリラヤのナザレに住んでいたダビデの家系のヨセフも、許婚の妻マリヤと一緒に、ベツレヘムといわれるダビデの町に上って行きました。

当時マリヤは聖霊によってイエス様を身ごもっていましたが、ベツレヘムに留まっている間に月が満ちて初子(ういご)を産むことになりました。ところで、人々が登録のために大移動をしたために、宿屋の客間には彼らが入る余地がありませんでした。そこでヨセフとマリヤは馬小屋に入って初子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。

飼い葉桶とは俗に馬小屋で馬や牛の餌を盛っておく桶であり、長い丸太を等分に割って中身を削った木の桶のことです。子供が産まれる時は普通、ベッドの上に寝かされますが、イエス様はなぜ獣である馬小屋で産まれ、飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。これには神様の摂理と意味があるのですが、それを知ってみれば、これもまた神様が私達に下さった祝福の中の一つであると悟ることが出来ます。

伝道者の書3章8節を見ると、「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ」と言われましたが、これは私達に試みと艱難が迫れば、まるで獣同様であることを自ら知る事が出来るという意味です。元々、神様が人間の始祖を造られた時は、神様の形をした生霊であり(創世記2章7節)、真理の御言葉で教えられたので霊の人でしたが、神様の御言葉に背いて善悪の知識の実を取って食べた後は「あなたは必ず死ぬ」(創世記2章17節)と言われた神様の御言葉の通りに、死を迎えるのです。

これがまさに生霊の死でした。人間は霊が死んでからは、神様と交わる事が出来なくなってしまい、宿敵悪魔サタンの惑わしを受け入れるようになり、魂と肉だけで造られた獣同様になり果てました。罪に染められ、神様の形を失い、人の本分がなくなって、獣と区別がつかなくなったのです。ですから、殺人、強盗、人身売買、麻薬等、正しい良心を失った人間の行ないを見て、獣にほかならないとも言われ、甚だしい場合には、獣にも劣る人間だと表現されることもあります。霊がなく、魂と肉だけで造られた獣は、決して神様の国へ行くことはないと言うだけではなく神様を父と呼ぶことも出来ません。

従って私達が獣と異ならないのであれば、天国に行けないのはあまりにも当然です。聖霊の体験をしたのにも関わらず、神様を欺いて世に向かう人たちがありますが、これが果して神様と人間の間であっても良いことでしょうか。生命の霊が生きているならば、このように背くこと出来ないのであります。イスカリオテ・ユダが、命の御言葉を聞きましたが、心に銘じなかったので、イエス様を欺いたのでありました。それで、伝道者の書12章13節を見ると、「神を恐れよ.神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」と言われていますし、箴言8章13節には「主を恐れる事は悪を憎むことである」と言われました。つまり、神様を恐れると言う事は、悪を憎むことですから、当然、悪を受け入れてはならないのです。

そして、すでに心の中に入っている悪は捨てなければなりません。又、その命令を守れ、と言われましたから、神様が「しなさい、してはいけません、守りなさい、捨てなさい、」と命じられた通り行なって行かなくてはなりません。そうしてこそ失った人間の本分を取り戻し、獣とは異なる霊の人となって、天国に入る事が出来るのです。私達はイエス様が人の本分を失い、獣同様に生きていく人間たちを贖って下さるために、むさくるしい所で産まれ、飼い葉桶に寝かされたことを悟って、その愛と摂理に感謝するべきです。

(2)富んでいながら貧しい道を行かれたイエス様

私達の主イエス・キリストは、主の主、王の王であり、又、創造主自体であられますので、天地万物の全てが主のものです。ヨハネの福音書1章10節を見ると、世は彼によって造られたのであると言われました。イエス様は、そのように富んでいるお方であるにも関わらず、貧しく産まれ、又貧しい道を行かれました。時には食べ物が無く、飢えることもあり、休む所がなく野原で寝ることもありました。五つのパンと二匹の魚の奇跡を施したイエス様がなぜそのような道を行かれたのでしょうか。ここにも神様の摂理と意味があるのです。

イエス様が貧しい道を行かれたのは私達の貧しさを贖って下さるためであり、又、獣同様の私達の罪を贖うための神様の愛であったことを知るべきです。コリント人への手紙第二8章9節を見ると「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」といわれました。ある人は、ここでいわれる貧しさの意味は主の霊的貧しさだと言う方もおられますが、主に霊的貧しさがあるはずがありません。

父なる神様と一体であられる主が、どのようにして霊的に貧しくなることが出来ましょうか。
まさに主は、私たちの肉的貧しさを贖って下さるために、貧しい道を行かれたのです。従って、神様の子供たちであれば、富んだ生き方をすることが神様を崇める道となります。

ですから聖書を見ると、私たちを富む者とするための、たくさんの祝福の御言葉があります。申命記28章やヨハネの手紙第三2節は、その代表的な御言葉です。私たちの霊魂がいつも恵まれていて、神様を愛するということは言うに及ばず、全ての事に恵まれて健やかな祝福が臨み、すべての事が意のままになり、富みに恵まれ、長生きが出来、信仰の先祖であるアブラハムが受けた祝福を受ける事が神様の御心であられます。

愛する聖徒の皆さん、ガラテヤ人への手紙6章7節を見ると「思い違いをしてはいけません。
神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもする事になります」といわれました。
侮るという事は、神様を台無しに思い、軽んじ、よそもの扱いにし、粗忽(そこつ、かるはずみ)にもてなすという意味です。

蒔かなくて刈り取ろうとすることは神様を侮ることであり、まさに神様の法則にもどるのです。例えば、1、000平方メ─トルの肥えた畑があるのに、怠け心によってか、種が惜しがったのかして、100平方メ─トルにだけ種を蒔いたとしましょう。 

この場合、畑が1000平方メ─トルであるから、1000平方メ─トルの収穫を取ることが出来るのでしょうか。いくら肥えた畑が広いといっても、100平方メ─トルしか種を蒔かなかったので、100平方メ─トルの収穫しか取れません。これと同じく私たちの信仰がどんなに大きくても、蒔かなければ刈り取られないことを知るべきです。

又、コリント人への手紙第二9章6節─8節を見ると、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。一人一人、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は喜んで与える人を愛して下さいます。」といわれています。つまり、神様の前には必ず信仰に従って蒔かなければなりません。

人によっては、蒔きたいけれど種が足りなくて蒔けないと、言うかもしれませんが、これは信仰ではありません。聖書には、貧しくても信仰によって蒔いた人は、溢れるように祝福されたことが書かれております。その代表的なたとえが、大ききんのなかでも、最後の粉と油でパン菓子を作り、エリヤをもてなしたシドンのサレプタのやもめと(列王記第一17章9節−24節)、生活費の全部であるレプタ銅貨二つを捧げて、イエス様に誉められたやもめです。(ルカ21章1節−4節) 

従って、私たちは、主が獣同様の人間たちを贖って下さるために、馬小屋で産まれて飼い葉桶に寝かされ、又、貧しさを贖って下さるために富んでおられながら貧しい道を行かれたことを悟り、神様の御言葉を守り従って(申命記28章1節─6節)人間の本分を取り戻さなくてはなりません。そして、熱心に忠誠をつくし、信仰によって蒔く者となり、いつも霊魂が恵まれると同じように、全てのことに恵まれ、健やかな祝福を受ける富んだ者となるべきです。

◇癒し主イエス様◇   「十字架の道(10)」  
 

〈聖書箇所〉ペテロの手紙第一2:24

2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

前の時間は、イエス様がなぜ馬小屋で生まれ、飼葉おけに寝かされて、貧しい道を行かれた神様の摂理と、私達に臨まれる祝福について説明しました。今回は「十字架の道」の10番目の学びです。「癒しの主」について、お話しをいたします。

(1)全身を鞭打たれ、血を流された主

イエス様は、十字架に釘付けされる前に、ロ一マ軍によって鞭で打たれ、さまざまな嘲りと蔑みを受けました。その当時ロ一マ軍は、世界を支配したローマ軍隊の兵士であり、とてもたくましく、力強い精鋭軍でした。このようなローマ軍兵がイエス様の衣を脱がせ、鞭で打ちのめしたのです。

その時の苦しみは、どれほどだったのでしょうか。
鞭の長さは、一度打つと、からだを一回半からませる程、長く、打った鞭をもとにもどす時は、肉片がもぎとられる程ですが、イエス様は、全身をむちで打たれ、血を流しながら、苦しみに堪えられたのです。それではなぜ、神様の子供であられるイエス様が、このように酷たらしく、鞭打たれたのでしょうか。

ペテロ第一の手紙2章24節を見ると、『キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです」と、書かれております。聖書を調べて見ると、すべての病は罪からくる、と書かれております。(出エジプト記・15章26節)
イエス様は、病のもとである罪の間題を解決してくださるために、鞭打たれ、血を流されました。そのことによって、すべての病の間題が解決されたのです。イザヤ書53章5節にも「彼の打たれた傷によって、私たちはいやされたのです。」と、書かれています。ところが、信じると言っても病が癒されない理由は、何でしょうか。

マルコの福音書11章24節を見ると、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と、いつも、肯定的な信仰を告白すべきことを示しています。自分自身の心の中で信じる時に、信仰の通りに神様の御働きが行なわれるからです。

たとえば、痛みが激しく、傷がそのまま残っている人に対して、祈ってから「あなたは、癒されました。このことを信じますか。」と、問うならば、人によっては「牧師様。祈りを受けましたので、癒されたと信じますが、まだ、痛みは去っていません。」と答える人がいます。このような人は、癒される霊的な信仰の持ち主ではありません。また、「いまだに、癒されなくて痛みが続いているのに、どうして嘘をつくことが出来ますか。」と答える人もいます。このような人は、霊的な信仰が何なのか、また、信仰そのものを理解していないので、癒されることが出来ないのです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と、ヘブル人への手紙11章1節に、書かれておりますので、病が癒されたと信じてしまえば、癒されるのです。病の苦しみがあっても、「彼の打たれた傷によって、あなたがたは癒されたのである。」と言われた神様の御言葉を信じているので「癒されました」と、告白して感謝しながら喜ぶならば、神様はその信仰を見て、癒しの御業を施してくださいます。

神様は、創造自体であられるので、エゼキエル書37章1節〜10節に書かれているように、骨に対して「生きなさい」と、命じれば筋と肉が生じ、皮で覆われ、息をして、大きな軍隊になりました。しかし、いまだ傷が残っており、苦しみも去らなかったので、悩み、憂い、心配などに浸っていると人間的思惑に陥り、信仰が、伴いません。否定的な考え方が、なくならなければ、癒しの神様に会うことは、出来ません。何よりもまず、神様に対して、信じる信仰を願い、人間の考え方を消して、霊的な信仰を持つ者になるべきです

(2)自ら私の災いを担い、病を負われた主

マタイの福音書8章を見ると、イエス様がさまざまな病人を癒される出来事が書かれています。この記事は、預言者イザヤによって「彼は、私達の災いを担い、私達の病いを負った」と言われた言葉が、成就されるためです。(マタイの福音書8章17節)ですから私達は、災いや病いによって苦しみを受ける必要が、ありません。

しかし、時には神様を信じるといいながらも、御言葉通りに生きていくことが出来なくて「私は、倒れたり、時には試みに陥ったり、 罪を犯すこともあります。」と、言いがちな人がいます。私達は、罪を捨てることが難しいと思う程、難しく、くたびれたと言えば、くたびれたことだけに出会うのです。

どんな状況が襲ってきても、信仰をもって祈りを捧げ、肯定的な信仰の告白を行なうならば、神様が助けて下さり、生き生きとした生活を送ることが出来るのです。ある者は、「イエス様の筆頭弟子のペテロでさえも、試みに陥らないように目を覚まして祈りなさい、と言われた主の御言葉にも関わらず、眠りこけてしまったり、命が惜しくて主を知らないと三度も否認したのではありませんか」と、問うことがあります。

ところがその時は、聖霊を受ける前でしたので、イエス様が十字架に釘付けられて死なれ、復活し、昇天された後に、聖霊を受けたペテロは、神様の子供とされ、強く勇敢な(大胆な)者になりました。ペテロに限らず他の弟子たちも、イエス様が捕らえられると、恐れ隠れて震えていましたが、聖霊を受けると、変えられていったのです。

さまざまな迫害の危険にさらされても、恐れることもなく、勇敢(大胆)に十字架の道と復活を証ししたのです。
ですから主が、鞭打たれ、血を流すことによって、私達の病いを贖われたことを信じる神様の子供たちは、病いで苦しむこともなく、健康な生き方を送ることが出来ます。

(3)神様の義を行なう者になるためには

さて、イエス様が鞭打たれ、血を流し、私達の病いを負ってくださった、と言いながらも、病気で苦しんでいる人がおりますが、それは、どのような理由なのでしようか。出エジプト記15章26節を見ると「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」と、おっしゃっています。

神様が、エジプトに下した十の災いには、この世のすべての病いが含まれて(総称)いますので、神様が見て、義を行なう者になると、神様は燃える炎のような目(その灯々たる御目)をもって守って下さるので、どのような病も近づくことが、出来なくなるのです。

それでは、神様が見て、義を行なうとはどのようなことなのでしょうか。すべての人は、それぞれに考え方も経験も違うので、人の義が同じようになることはありません。また、神様の側と、人間の側での義も異なります。例えば、幼い子供が隣の子供に、いじめられて泣きながら帰ってきた場合、人によって義が違い、神様の義と人の義が異なるために、おのおの反応が違い、信仰によって幼い我が子に対する態度や教育も異なってくるのです。本当に、神様の意志に従って「あなたの右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい」と、言われて、悪を善によって勝ち、敵をも愛して、平安を求めるように教えようとする親は、まれにしか見ることは出来ません。

しかし、このように神様が見られるように、義であり、真理に沿って、教えられながら育ったならば、その子供は、多くの人々を赦して、かつ理解して、受け入れる心を持った大きな器に成長して、その後、世に必要な人物になるのです。神様が見て、義を行なう者になると、神様の戒めと定めを守ることは難しくありません。聖書を見ると「しなさい。してはいけません。守りなさい。捨てなさい。」という御言葉がありますが、祈りつつ、その言葉に従っていくと、神様が見て、義を行なう者になるのです。

そして、如何なる病も患うことなく、すべての病から解放されるのです。これとは反対に、神様が見て、義を行なう者にならなかったならば、病がしのびこんでくるのです。この場合は、悔い改めて、はじめて癒しを受けることが出来るのです。(ヨハネによる福音書5章14節、マルコによる福音書2章5節〜11節、歴代誌第ニ16章11節〜14節)

愛する聖徒の皆さん。病いは罪から来るのです。イエス様が鞭打たれ、血を流されたことによって、私達の罪と、病が贖われたことを、悟りましょう。

ですから私達は、すでにすべての病から解放されていますから、苦しみを受けることが、全くありません。病が忍びこんできたとしても、悔い改めて神様の前で義を行なう者になると、すぐに、癒しの働きを受けることが出来るのです。いつも神様の前で、義を行なう者となり、霊魂が恵まれているのと同じように、すべてのことが恵まれて、祝福されるように主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。

◇いばら冠と着物を取った理由◇  「十字架の道(11)」  
 

〈聖書箇所〉マルコの福音書15:16−20。

15:16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

今日は何故イエス様がいばらの冠をかぶり、裸にされて十字架につけられなければならなかったのか。また何故ローマ軍の兵士達がイエス様の上着を四つに分け、おのおのその一つを取り、下着は分けきれなく、くじを引いたかについて、神様の摂理を証してみます。

(1)イエス様がいばらの冠をかぶられた理由

マルコの福音書15章16節〜20節を見ると、ロ一マ軍の兵士がイエス様にいばらの冠を編んでかぶらせる場面が書かれています。兵士はイエス様を王として認めていなかったにも関わらず、イエス様を侮辱し王様のかぶる冠をかぶらせたのです。しかしイエス様のかぶった冠はとても長く硬いいばらで編んだ冠だったので、そのいばらが頭に刺さり、ひどい苦しみを受けられました。何故イエス様はこのようないばらの冠をかぶらなければならなかったのでしょうか。

イエス様は、私達が思いや考えを通して犯す全ての罪を贖って下さるために、いばらの冠をかぶられたのです。
このことは神様の摂理の中で成されたことです。人間の頭の中には記憶装置があり、生まれてから現在に至るまで目で見たこと、耳で聞いたこと、また教えられて習ったこと等が「感覚」と共にその記憶装置に入力されます。このようにして私達の脳の中に記憶された事が再生され、「思い」となって出て来るのです。こうして与えられた思いや考えが人によって異なるために、神様の御言葉と同じ真理がある反面、神様の御思いに背いてしまう非真理の心もあるのです。

マタイの福音書16章21節に出てくるように、イエス様がこれから先ご自分が多くの苦しみを受けて殺されること、そして三日目に甦ることを弟子達に説きながら神様の御心を伝えておられる時、ペテロはイエス様に向かって、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言いました。するとイエス様はペテロに対して、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と戒める場面が出てきます。

イエス様がエルサレムに上って行かれることは全ての人の罪を購い、救いの道に導くという神様の御心でしたが、サタンはこの神様の業を妨害しようといつも機会を狙っていたのです。ですからイエス様はペテロに「下がれ。サタン」と言われたのです。これはペテロがサタンである、と言う意昧ではなく、ペテロの思いや考えを通してサタンがイエス様の行ないを妨げようとしたからです。このようにしてサタンは人間の思いを利用して、神様に反発する非真理や悪、罪、不義、不法を行なわせ、神様の御心に従順させないように仕向け、信仰さえも奪おうとするのです。

そして神様から離れた者たちを世の中の肉的な事を通して罪を犯させて、死の道、即ち地獄へ導こうとするのです。 これこそがサタンの最大の目的なのです。ですから聖書では「全ての考え思いをとりこにしてキリストに服従させよ」(コリント人への手紙第二10章3節−6節)と言われています。罪というものは悪い考えや思いが脳に伝えられ、脳がそれを受け入れるとその罪のために計画を立てそれを行動に移すのです。

ですから、その悪い思いを受け入れた事自体が既に罪であると言えるのです。(ヨハネI3章15節、マタイ5章28節)思いを通して入ってくる罪を受け入れると罪を犯すことになり、ついには死の道に行くことになるのです。

「罪から来る報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)このようなことを根本的に解決するためには、まず頭に入ってくる思いを利用しようとするサタンを退けるために、肉体の情欲、目の情欲、世との関わりを絶つべきです。イエス様は、私達が犯す全ての不法、罪、悪を贖って下さるために、いばらの冠をかぶられて血を流して下さいました。

血には命と同じ意味があり、血を流さなければ私達の罪は赦されなかったのです。またイエス様がいばらの冠をかぶられたことによって、私達には朽ちない冠(コリントI9章25節,27節)栄光の冠(ペテロ第一5章4節)、いのちの冠(ヤコブ1章2節、黙示2章10節)、金の冠(黙示4章4節)、義の冠(テモテ第二4章8節)など素晴らしい冠が与えられました。私たちはこのような祝福に感謝して、これからも益々良い冠を受けられるように神様に従順し、努力して行かなければなりません。

(2)イエス様が裸で十字架につけられた理由

マタイの福音書27章22節〜26節を見ると、ユダヤ人達がピラトにイエスを十字架につけるように要求するとピラトは、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい」と言い、ユダヤ人たちは「その人の血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもいい」と答えました。

結局、救いの神様を知らなかったイスラエルの民衆の要求によってイエス様は様々な侮辱を受け、裸にされたまま十字架に架けられ死なれました。イエス・キリストは神様のひとり子であり、王の王、主の主である尊い方であるのに、何故ローマ軍の兵士や、大勢の民衆の面前で裸にされ十字架に架けられたのでしょうか。そこには神様のどのような摂理があるのでしょうか。

イエス様は私達人類の罪のために侮辱を受けて下さったのです。獣に等しい私達人類の様々な罪を贖って下さる為に、民衆の目の前で裸にされ十字架につけられたのです。イエス様を釘付けにしたユダヤ人達は、「その人の血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもいい」と答えたために、当然つらく厳しい試練や艱難を受けなければなりませんでした。

その70年後、ローマのタイトス将軍に攻撃されたエルサレムは遂に滅びてしまったのです。国が滅びると民達は東西南北に散らされ、苦難の生活を強いられました。そればかりではなく第二次世界大戦中にはナチスの治下(ちか)で様々な虐殺と拷問を受け、老若男女全ての者が裸にされるなど耐えられないほどの侮辱を受けつつ死んでいきました。全てが聖書に記されている通り成されたことをイスラエルの歴史が証明しています。

(3)イエス様の上着を四つに分けて取り、下着をくじで引いてわけた理由

ローマの兵士達はイエス様を十字架につけた後、イエス様の上着を四つに分け各々がその一つを取りました。イエス様の上着は絹の衣でもなく、特別に素精らしいものでもなかったのに何故、四つに分けられなければならなかったのでしょうか。そこには明らかに神様の摂理があるのです。イエス様の上着の霊的な意味はイスラエルの国と民衆を指しています。

イエス様の上着を四つに分けたことによって上着の形が無くなってしまいました。それはまさしくイスラエル国家が滅びて無くなることを意昧しています。また上着の形は無くなってしまったとしても裂かれた布自体は残ります。そこにはイスラエルという国の名前は残ると言う意味が含まれているのです。

またローマ軍の兵士達が上着を四つに分けて一つずつ取ったと言うことは、このイスラエルの民達がローマの兵士達の手によって滅ぼされ、東西南北に散り散りにされることを預言した事なのです。イエス様の上着を取った兵士達は、イエス様の下着もくじを引いて取りました。この下着には縫い目がなく、上から下まで一つに織ったものであったと聖書には書かれております。神様は、このイエス様の下着を通してイスラエルの霊的な説明をしておられるのです。信仰の先祖はアブラハムであり、イスラエルの先祖はヤコブだと言われております。

アブラハムの子孫であるヤコブを通して十二部族が成り立ち、イスラエルという国が建てられたのです。(創世記32章38節,35章10節〜11節、申命記32章9節)このようにして成り立ったイスラエルはヤコブの子孫によって純粋なる単一民族として続いて来ましたが、ソロモンの子レハベアム王の時に、北イスラエルと南ユダヤに分かれました。北イスラエルはアッスリヤに滅ぼされた後、異邦人と結合しましたが、南ユダヤは単一民族として続いており現在ユダヤ人と呼ばれています。

それでは何故イエス様の下着を裂かずにくじを引いて分けたのか。また、それにはどのような意味があるのでしょうか。この下着は霊的にはイスラエルの民衆の心を指しています。つまり神様を崇める心だけは裂くことが出来ず、守られたと言う事なのです。

イスラエルが滅ぼされ国の形は無くなってしまいましたが、神様をだけは異邦人に奪われないと言うことを預言したのです。このように変わることのない心を持っている民族であるからこそ、神様は彼らを選民として選び、聖書に書かれている通り、彼らを通して神様の御国と義を成し遂げているのです。

ですから、国が滅んでから2000年近く経ってもエゼキエル書38章8節〜i2節に書かれている通り、多くの日の後、即ち終わりの年にイスラエルは独立し、神様の選民として神様の御心を実現しているのです。

十字架の処刑  十字架の道(12)  

〈聖書箇所〉イザヤ書53:4−6。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

前回はロ一マ兵士達がイエス様の着物を四つに分けて下着は、くじを引いた事件について説明しました。それは、その事を通してイスラエルが減亡されて、イスラエル民族が全世界に散らされても、そのような状況であってもイスラエル民族は生き残ると言うことを予言した内容でした。今日は、これによる最後の日の歴史とイエス様が十字袈につけられ処刑された事件についてお話しを致します。

(1)聖書に預言されたイスラエル歴史と最後の日

神様はロ一マ兵士たちが取ったイエス様の着物を通してイスラエルの歴史を予言されましたが、これは末の世についての暗示でもあります。エゼキエル388を見ると、「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる。」と書いてあります。

末の世ということは、イエス様がこの世に来られてから再臨するまでの期間を意味しており、終わりの年ということは、主の再臨が近づいている最後の日のことを意味しており、終わりの年にイスラエルが再建されることを預言した御言葉です。A.D.70年ローマによってエルサレムが破壊された後、1948年にイスラエルが独立するまでエルサレムは荒れ地のままでした。聖書に書かれてある、「終わりの年に久しく廃墟であったイスラエルの山々に住む」ということは、主の再臨が近づいている終わりの年には全世界に散らされていたイスラエル民族が海抜790メートルにあるエルサレムに集まってくる、という意味なのです。

このような旧約聖書の予言の通りにイスラエルは1948年に独立しました。イスラエルの独立は新約聖書マタイの福音書243234に、いちじくの木の例えを通して預言されています。イスラエルを象徴するいちじくの木は冬になると死んでしまったかのように見えますが、春になると新しい芽が出て息を吹き返します。

このように一度は滅びてしまったように見えたイスラエルが再び蘇り、独立したときは、主の再臨が近づいている、ということを私達に教えてくれている御言葉です。また、マタイの福音書241214を見ると、イエス様は終わりの年の前兆について尋ねる弟子たちに、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」と言いました。今日、不法がはびこらないところがないほど世の中が乱れております。(参考:申命記1822、マタイ1222174141217214

学校にも不法があり、隣人や兄弟、親子の間にさえ真の愛を見ることが難しい時代となってしまいました。使徒の働き18で、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われた通り、福音が地の果てにまで伝えられており、イエス様が誰であるかを知っている人が多いのにも関わらず、このような腐敗しきった世の中になってしまっているのです。

 イスラエルから始まった福音は、異邦人の使徒に選ばれたパウロを通してヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパからアメリカに、またアメリカからアジアに入ってきました。全世界の細かい所までは福音がまだ入っていないところもありますが、すでに全世界に伝えられていると言っても過言ではありません。このように神様は、ロ一マ兵士たちがイエス様の着物を取った事件を記録させて、イスラエルの歴史と終わりの年の歴史を聖書にすでに予言して下さったのです。
 
(2)十字架の処刑を受けられたイエス様

 人間を殺す方法の中で一番残酷であり、苦しい思いをするものが十字架の処刑です。十字架刑とは、大きな木で作った十宇架の上に両手と両足に釘を打ち付けて、罪人が死ぬまで架けたまま放置しておく処刑の方法です。十字架に両手と両足が釘付けられる苦しみも例えようがないほどのものですが、釘付けられたまま何時聞も放置されている苦しみは何とも大きく、言い尽くせないものであったでしょう。

すぐに息を引き取れば苦しみも止まりますが、十字架の処刑法は急所を刺すものではないので長い時間の苦しみを受けなければなりません。イエス様は頭にいばらの冠をかぶり、鞭打ちにされ、傷だらけの体で十字架につけられ砂漠の強い太陽の光を受けながら、体中の水と血を全て流して9時間もの間、苦しみを受けられたのです。しかも、その流された血の臭いに引き寄せられて飛んできた汚い虫が体を舐め、また十字架の下では大勢の人々がイエス様を罵りあざけっている状態であり、人間としてはとても耐え難い苦しみを受けられたのです。

しかし、イエス様は、ご自分が私達人間のあらゆる呪いと罪を背負って十字架に架かることによって人々が罪から解放されて、義人となり、神様の子供として本来の姿を回復して、永遠の命を受けることが出来ると言うことを知っておられたので喜びと感謝をもって十字架の苦しみの道を歩んで下さったのです。しかしそのようにして下さったイエス様を苦しめるものがあります。

それはイエス様からこのような無償の愛を受けたのにも関わらず、この事実を知らずに主を信じようとしない数多くの者がいるということです。

(3)十字架処刑の当時の状況

イエス様が十字架につけられた時、二人の強盗も一緒に十字架の処刑を受けました。一人は右側に、もう一人は左側にいました。(マタイ27章38節)マタイ27章39節−44節、マルコ29章32節を見ると、道を行く人々、大祭司長、律法学者、長老たちがイエス様を罵ったり、あざけった時は二人の強盗も一緒に罵った、と書いてあります。

 しかし、ルカの福音書23章39節から43節を見ると、二人の内、一人はイエス様を罵りましたが、反対側の強盗はむしろ彼を叱り、自分は悔い改めながらイエス様を救い主として受け入れ、パラダイスに行くという場面が出てきます。なぜ同じ場面を書いた聖書なのに全く違って書かれているのでしょうか。これは聖書が聞違ったものでも、聖書の記者が聞違って書かれたのでもありません。そこには必ず神様の霊的な御心が隠されているのです。

 私達はこのような記録を通してその当時の状況を具体的に知り、神様の御心を確かに悟ることが出来るのです。処刑場であるゴルゴタの丘にはイエス様がつけられた十字架が立てられており、その左右に二人の強盗も一緒につけられていました。イエス様に対する様々な噂が広がっていたので十字架の周辺には大勢の人々が集まり、その中にはイエス様を憎む人たち、またイエス様を愛する人たちなど多くの人がいました。その群衆の中にいたイエス様の弟子の側には、向こう側の強盗がイエス様に向かって罵っているように見えたのです。

しかし、実際は、その強盗はイエス様にではなく、もう一人の強盗に向かって話をしていたのですが、遠いところから見ていたため話の内容は全く聞こえず、顔だけを見て罵っているように見えたのです。また、体が十字架につけられているため、顔だけを向けて話していたのでイエス様に対して話していたのか、向こう側の強盗に対して話していたのかを見分けるのが出来なかったのです。そのような理由で十字架の下にいた群れの中の弟子は強盗がイエス様を罵ったと錯覚して書かれているのです。つまり、悔い改めた強盗の近くにいた人々にはよく聞こえましたが、反対側の強盗の近くにいた人々には向こうの話が聞こえなかったので誤解した、という訳です。

神様がこのように書くことを許されたので、私たちは更に詳しく当時の状況を知ることが出来ました。聖書を完全に信じて疑わない人たち、また祈る人たちにとっては今日の御言葉の霊的な意味を知ったとき、「この聖書の御言葉の裏側にはこのような状況が展開されていたのか。」と、新たな発見と感銘を受けることが出来るのです。

十字架の処刑(2)◇  「十字架の道(13)  

〈聖書箇所〉イザヤ書53:4−6。
53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

今まで数回にわたって、十字架の摂理について説明してきました。前回に続いて今回は、なぜイエスさまが、「両手と両足を釘づけられ、わき腹を槍で突かれて水と血を流されたのか。」ということについて説明していきます。

(1)イエス様が両手と両足を釘づけられた理由

マルコの福音書94349節を見ると、「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」とおっしゃっています。
人は、手によって多くの罪を犯します。手があるために怒ると人をげんこつでなぐったり、ほおを打ったりします。白分の妻を殴ったり、時には盗んだり、賭けことをしたりもします。生まれてから今まで手でなしてきた悪いことが、どれほど多いことでしょうか。両足はどうでしょう?

足で人や物を蹴ったりします。行ってはならない所に行ったり、見てはならない所に行って見たりして罪を犯します。盗みたくなると、自分の足で、盗みに行くことも出来ます。いっそ足がなかったら犯さなくてすんだ罪が多いのです。目も同じです。目で見ることが、行ないに現われるようになります。

ですから、罪を犯して地獄に行くよりは、いっそ手や足を切り捨て、目をえぐり出してでも天国に入るほうが、はるかに良いのです。しかし感謝なことは、私たちの主が十字架にかけられ、両手と両足を釘づけられて尊い血潮を流してくださった、という事実です。それは、そのことによって、手と足で犯した罪が、贖われたからです。

それでは、目で犯した罪は、どのように贖ってくださったのでしょうか?目は、私たちの考えが動くままに動きます。また私たちは、目で見たことが私たちの考えを通して私たちに伝えられて、影響を受けるのです。しかし、主が頭にいばらの冠をかぶって尊い血潮を流してくださったことによって、目によって犯した罪、すなわち考えを通して犯した罪が贖われました。

ですから、私たちは、たとえ罪を犯しても、神様の恵みと愛と公義のゆえに尊い血潮によって洗い流していただいたため、悔い改めてもとに立ち返るならば、もはや手や足を切り捨てることなく、目をえぐり出すことなく救われるようになったのです。旧約時代は「行ないによる救い」だったので、行ないに現われた罪は赦されることなく、犯した罪のとおりに罰せられました。

新約時代は「信仰による救い」の恵みの時代なので、悔い改めてもとに立ち返るならば、主の尊い血潮がその罪を洗い流してくださることによって、罪がないとされ(ヨハネの手紙第17)、神様の聖い子供と認められるのです。もし、イエス様の十字架の苦しみがなかったならば、私たちは手や足、目で罪を犯した場合、天国に行くためには手と足を切り捨てて、目をえぐり出さなければなりませんでした。

今日も中東のイスラム教諸国では、イエス様を救い主と信じるのではなく、旧約でモーセに与えられた律法を信じているために、「いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を足には足を、」という処罰法をそのまま守っています。しかし私たちは、もし手や足、目によって罪を犯したとしても、信じて悔い改めてもとに立ち返るならば、その罪が主の恵みのうちに、尊い血湖で洗い流されて赦されるのですから、この感謝はどれほどでしょうか。

(2)わき腹を槍で突かれて、水と血を流された摂理
 
イエス様は、十字架にかけられて数時間苦しまれた後に、ついに亡くなりました。金曜日に十字架で処刑されましたが、旧約のもとにありますから、その翌日が安息日でした。安息日はユダヤ人にとって大いなる日であり、死体を十字架にかけたままにしておくことは汚れになりますから、出来ませんでした。

それで総督であったピラトに、処刑された者たちの足を折って死体を片づけてくれ、と要求します。総督の許可のもとで、イエス様の右と左につけられた強盗はそのように処理されましたが、イエス様はすでに亡くなっていたので、息が絶えていることを確認されただけで、骨は折られませんでした。これは、詩編3420節に書かれています「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」という聖書の御言葉が成就するためです。

 しかし、ヨハネの福音書1934節を見ると、「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」とおっしゃっています。なぜ、すでに死んだ人のわき腹を槍で突き刺したのでしょうか?それは、まさしく、私たち人間の悪を表わしているのです。死んだことがはっきりわかっていながら槍でわき腹を刺すのですから、これが人間の悪でなくて何でしょうか。それでは、「わき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」という御言葉は、何を意味しているのでしょうか?

第一は、「私たちの主が、人として来られた」ことの証拠です。
ヨハネの福音書114節を見ると、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とおっしゃっています。罪人は神様を見ると死んでしまいますから、神様は私たちの前に姿を現わすことがお出来になりません。それで霊であられる神様は、ひとり子をこの地上に送って神様を証しさせて、神様を信じることが出来るように導いて来られました。

 また、アダムひとりが罪を犯したことによって、罪がこの世に入ってしまい、全ての人が罪人になって死に行かざるを得なくなりましたから(ローマ人への手紙512)、私たちを救う方も、人でなければなりません。御言葉が肉体を持ってこの地上へ来られたならば、私たち人間と全く同じように、骨と肉と血がなければなりません。呼吸もしなければなりません。ですから聖書を見ると、イエス様は食べなければなりませんでしたし、疲れている時は寝なければなりませんでしたから(マタイ福音書82426節、マルコ福音書320節)、「わき腹を槍で突き刺すと、血と水が出て来た。」と書かれているのです。

 第二は、「私たちが肉体を持っていても神様のご性質にあずかることが出来、イエス・キリストに似せられていくことが出来る」ということの証しになります。
ペテロの手紙第二14節を見ると、「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす減びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」とおっしゃっています。

またピリピ人への手紙258節には、「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」とおっしゃっています。

イエス様は、肉体をもってこの地上へ来てくださり、神様の御心に従ってその使命を全うされ、愛によって律法を完成なさいました。したがって私たちも、人間の弱さを言い訳にすることなく、神のご性質にあずかる者となり、キリスト・イエスの心構えでいなければなりません。私たちのうちにキリストの形を造るならば、すなわち「キリストの心に似るならば」、天国において太陽のように輝く者になります。【参考:ピリピ人への手紙2章5節、ガラテヤ人への手紙419、ペテロの手紙第二14、コロサイ人への手紙310エペソ人への手紙424 


 第三は、「まことのいのちと永遠のいのちに導く力の血と水である」という証拠になります。
イエス様は、原罪も自犯罪もありません。ですからイエス様が流してくださったものは、傷も汚れもしみもない、尊い宝のような血と水なのです。主がこの尊い血潮を流してくださったゆえに、私たちは罪が洗われ、いのちを得て、復活することが出来、永遠に生きることが出来るのです。また、水とは、霊的に見ると、御言葉を意味しています。御言葉を聞いて悟ることは、主の肉を食べることです。主の肉を食べることによって、罪を捨てて義人になっていき、義人になっていく分だけ、主の尊い血潮によって罪が洗われていくのです。

ですからこの水と血は、私たちを復活させることが出来る水と血です。カある水と血なのです。私たちにまことのいのちをもたらし、永遠のいのちの道に導く水と血であることを証ししているのです。

愛する聖徒の皆さん。 これまで説き明かした御言葉を心の糧として祈っていくならば、御言葉がまさしく、皆さんのカと祝福になります。この力の御言葉を通して永遠のいのちの道に導かれますように、主の御名で、お祈り致します。

十字架上の七言(1)   「十字架の道(14)  

〈聖書箇所〉ルカの福音書23:23−34、ヨハネの福音書19:26−27。

ルカの福音書23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

ヨハネの福音書19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 「十字架の道」の第14回です。イエス様は、十字架に釘づけられてから死なれるまで、十字架上で七つの御言葉を語られました。死を目前にした人たちが過去を回想して遺言を残すように、イエス様も、御言葉であられるのが肉身になって、この地上に来られてから死なれるまでの全てのことを回想してまとめ、七つの御言葉に託されたのです。これを「十架上の七言」と言いますが、きょうは、そのうちの三つの御言葉について説き明かしています。

(1)第一言「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 イエス様が十字架の上で最初におっしゃった御言葉は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」という、仲保者(仲介者)としてのとりなしの祈りでした。(へブル8章6節、9章15節、12章24節、テモテT・2章5節)ここで「彼ら」というのは、当時、イエス様を迫害して十字架に釘づけてあざけった者たちだけではありません。罪人になった私たち全て、つまり、十字架の後にもイエス様を救い主として迎え入れずに、闇の中を歩み続けている人類の全てを指しておっしゃった御言葉です。私たちも、初めから主を迎え入れて、真理の中を生きてきたわけではないからです。

私たちは闇の中を生きているために、光を嫌い、義人を嫌い、真理を嫌います。ですから、私たちの罪を購うためにこの地上に来られたイエス様を知ろうともせずに、光であられるイエス様を嫌って、十字架に釘づけてしまいました。しかしイエス様は、父なる神様に「彼らは、真理を知らないために罪を犯したのですから、赦してください。」と愛の懇願をしてくださったのです。マタイの福音書5章44、45節を見ると、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」とおっしゃっています。

私たちがイエス・キリストを迎え入れて、聖霊を受けて光の中で生きていこうとするならば、闇を支配している宿敵である悪魔サタン、すなわち「人間の悪しき行動を主管する霊的存在」がそれをいやがって、闇の中を生きている人々を通して妨害し、迫害してきます。また、伝道すると、あざけって迫害してくる人もいます。これは、真理を知らないために、なぜイエス・キリストを迎え入れて、善の中で御言葉を守り行なって、世と区別された生き方をしなければならないのかを、全く知らないからです。

ですから、私たちも、あらゆる人を哀れに思って「父なる神様、彼らをお赦しください。そして彼らの霊の目を開いて、イエス・キリストを救い主として迎え入れて、私たちと一緒に天国に行くことが出来るように、祝福してください。」という愛の懇願をしなければならないのです。
このように神様の子供たちは、白分を認めて善を成し遂げてくれる人だけではなく、自分を迫害して苦しめる者をも愛の心をもって赦して、祝福を祈って、彼らも救われるように助けてあげなければなりません。とは言っても、全ての人を赦して祝福を祈りなさい、ということではありません。

ヘブル人への手紙6章4〜6節を見ると、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とおっしゃっており、

ヘブル人への手紙10箪26、27節にも、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」とおっしゃっているからです。

(2)第二言「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

イエス様が十字架に釘づけられた時、ふたりの犯罪人もともにつけられたのですが、そのうちのひとりの強盗が、「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と告白しました。するとイエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とお答えになりました。

この御言葉には、多くの霊的な意味が含まれており、私たちは多くのことを悟ることが出来ます。神様の国である天国は、激しく攻められていて、私たちが行なったとおりに報われ、蒔いたとおりに刈り取る所なのです。ですから、私たちがどれほど信仰を持って、罪と血を流すまで戦って捨てて霊的な人になったのかによって、住まいと栄光が違ってきて、また報いも違ってくるのです。

 この地上での行ないによって、与えられる栄光が違い。コリント人への手紙第一15章41、42節、「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」、ヨハネの福音書3章6節に、聖霊によって霊が生まれるとあるので『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』どれほど霊的な人になったかによって、天国でのすまいが違うのです。青年と壮年が心置きない交際は出来ないように、ちょうどそのようなわけで天国が分けられている、という意味です。

コリント人への手紙第二12章2節「第三の天にまで引き上げられました。」列王記第一8章27節「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。」詩篇148篇4節「天の天よ。天の上にある水よ。」ヨハネの福音書14章2節「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」本文に出てくる強盗は、死の直前に悔い改めてイエス様を救い主として迎え入れたにすぎず、この地上で生きている間、天国に入るために御言葉を守り行なったことはありませんでした。

罪と戦って捨てたこともなく、使命を果たしたこともなく、主の御名のために忠誠をつくして奉仕したことも全くないので、報いの与えられない楽園に行くのです。それでは、イエス様はなぜ、強盗とともに楽園にいる、とおっしゃったのでしょうか?これは、イエス様は楽園にだけおられる、という御言葉ではないからです。イエス様は王の王、主の主ですから、どこにでも分け隔てなくともにいてくださり、治めておられます。

ですから天国のどこにでもおられるように、楽園にもともにおられる、という意昧なのです。イエス様は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とおっしゃいましたが、ここで「きょう」とは、十字架で亡くなられた日の金曜日を指しているのではありません。

悔い改めた強盗が救われて神様の子供になったので、きょうから後はどこにいても、イエス様が、神様の子どもである強盗とともにいてくださる、とおっしゃったのです。イエス様は、十字架に釘づけられて亡くなられた日に楽園に行かれたのではなく、よみに行かれたことが、聖書に書かれているからです。マタイの福音書12章40節を見ると、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三目三晩、地の中にいるからです。」とおっしゃっており、エペソ人への手紙4章9節を見ると、「この上られた。ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」とおっしゃっております。

 公義と愛に富んでおられる主は、よみに下って、獄にいる霊たちに三日の間、福音を伝えられたのです。ペテロの手紙第一3章19節を見ると「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」と、おっしゃっています。イエス様が十字架に釘づけられる以前の旧約の人々や、福音が入る前のこの地上の人々の中には、創造主なる神様を心の中で認めて、善良な生き方をした人々がいました。彼らの霊と魂は、最後の審判があることを感じ、それを彼らの良心が証ししたので、善に従って生きていました。

ローマ人へ手紙2章14節と15節を見ると「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、」と、おっしゃっています。

イエス様は、このような者たちが死んだ後に行く獄に下られて、ご自身を自ら証しされたのです。なぜなら、世界中でイエス・キリストの御名のほかには、救いを与えうる者はないので、獄(ごく)にいる霊たちが救われるように、ご自身を証しされなければならなかったからです。(ペテロ第一3章19節)

(3)第三言「女の方。そこに、あなたの息子がいます。........そこに、あなたの母がいます。」 

イエス様はこの三番目の御言葉をとおして、主を信じる神様の息子、娘はみなひとつの兄弟だということを、十字架の上で宣言されました。ここで「息子」とは、イエス様ご自身ではなく、ヨハネを指しています。イエス様の十字架刑を悲しんでいるマリヤに、これからはヨハネを息子と思うように告げ、ヨハネには、マリヤを母のようにして仕えることを頼んだのです。

ヨハネの福音書19章25〜27節を見ると、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」と書かれています。

本文に書かれている「母」ということばは、イエス様がおっしゃったのではなく、ヨハネの福音書の記録者である弟子ヨハネが自分の観点から見たものです。
なぜイエス様は、ご自分を生んでくれたマリヤを「お母さん。」ではなく、「女の方よ。」と呼ばれたのでしょうか?イエス様は、神様の子供として肉体を持ってこの地上に来られる時に、処女マリヤの体を借りて聖霊によって生まれましたから、肉的にはマリヤが母になり得ますが、霊的には、母ではあり得ません。私たちの救い主であるイエス様は、三位一体の神様のおひとりとして創造主ご自身であられるのに、どうしてその母が存在するでしょうか?

ですから、イエス様が人の子として御言葉を語られた時には、肉的に生んでくれた処女マリヤがいるのですが、復活されて私たちの救い主になられると、創造主である神様には母はあり得ないので、このようなわけで、「お母さん。」ではなく「女の方よ。」と表現されたのです。
  参考:公生涯とは御国の福音を宣べ伝える期間、宣教を開始し

聖書を詳しく読んでみると、イエス様は公生涯を始められてからは、マリヤを「お母さん。」と呼んでいませんし(ヨハネの福音書2章1〜11節)「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」公生涯を終えられる場でも、マリヤに「女の方よ。」という呼び方をして、イエス様が救い主としてこの地上に来られたことを証ししておられます。

イエス様はこの御言葉で、肉的には自分が身ごもって生んだ息子のイエスが今、十字架に釘づけられて死のうとしているため、胸が張り裂けんばかりの苦しみに耐えているマリヤを慰めました。また、愛する弟子であるヨハネに、マリヤを母のようにして仕えることを頼んで、母に対する息子だと思うようにおっしゃいました。

つまり、イエス様を救い主として迎え入れた神様の子供たちは、血肉関係を脱いだ「天の御国の国籍(ピリピ人への手紙3章20節)を持った天国の民である」という所属意識を、はっきりと悟らせておられるのです。マタイの福音書12章46〜50節を見ても、『わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『..天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」とおっしゃって、所属をはっきりさせておられるのです。

ですから、天の国籍がある神様の子供たちは、光の中で行なっていって信仰が育つほどに、天の御国への所属意識がはっきりしてきて、以前には自分の血肉の兄弟のほうがよくてかわいいと思ったのが、次第に、信仰の兄弟がかわいいと感じるようになります。光であられる神様に従って光の中に住むようになるので、闇の中に住む世の人々とは区別されるからです。また、神様の子供でなければ、永遠の兄弟姉妹にはなれないからです。

したがって私たちは、本当の親や兄弟姉妹がだれであるかをはっきりと知って、イエス・キリストを迎え入れることを拒んで減びの道を歩いている者たちに、力を尽くして伝道しなければならないのです。

十字架の上の七言(2)   「十字架の道(15)  

〈聖書箇所〉マタイの福音書27:46、ヨハネの福音書19:28-30、ルカの福音書 23:46。

マタイの福音書 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになった のですか。」という意味である

ヨハネの福音書9:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

ルカの福音書 23:4623:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 今日は、「十字架の道の15回目」です。前の学びには、イエス様が十字架にかけられて死なれる前に十字架上で語られた 十架上の七言」のうち、第一言から第三言までを説き明かしました。きょうは前回に続いて、第四言から証していきます。

(1)第四言:「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

十架上の七言の四番目のおことばは、マタイの福音書27章46節を見ると、「『三時ころ、イエスは大声で、エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」と書かれています。イエス様は第三時に十字架に釘づけられましたが、第六時になった時、全地が暗くなって、第九時まで続いた、とあります(マルコの福音書15章25、33節)。わが国の時間に直すと、午前9時から午後3時まで、なんと6時間も釘づけられていました。

 御言葉を誤解して、イエス様は人としてこの世に来られたので、十字架刑があまりにも苦しくて、神様を恨んで叫んだことばである。と言う人もいますが、決してそうではありません。イエス様がこの地上に来られた目的は、私たちの全てののろいと罪を身代わりに負って十字架につけられ、血を流して死なれることでした。また、十字架の苦しみがわからなかったのでもなく、全てこ存じのうえで背負われたのです。

まして、十字架にかけられるまでよく耐えて来られたのに、どうして死の直前に神様を恨まれるでしょうか?イエス様は、一晩中縛られたまま連れ回されて尋問を受け、十字架を負う前にむちで打たれて血を流され、いばらの冠をかぶらされて血を流きれ、重い十字架を背負って、ゴルゴダの丘まで歩いて上られました。そして、六時間も十字架に両手両足を釘で打ちつけられて、血を流された状態で、何の気力が残っているでしょうか。何か話そうとしても、蚊の泣くような声しか出ない状況でした。それにも関わらず大声で叫ばれたのは、イエス様が語られるおことばが人々にはっきりと聞こえなければならない、深い意昧があったからです。

イエス様は、多くの人が聞いて理解することが出来るように、また、聖書に正確に書かれて、全人類が知ることが出来るように、全力をふりしぼって絶叫しなければならなかったのです。それでは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」すなわち「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と大声で叫ばれた理由は何でしょうか?第一は、イエス様が木の十字架につけられた理由を、全人類に知らせるためでした。

聖書を見ると、イエス様は神様を、いつも「父」と呼んでいますが、本文では、「父」ではなく「神」と呼んでおられます。罪人は、神様を「父」と呼ぶことが出来ませんから、罪人として十字架につけられたイエス様も、神様を「父」と呼ぶことが出来ませんでした。イエス様は、全人類の罪を贖うために十字架につけられたので、ご自分が罪人として神様から捨てられた状態であることを人々に知らせて、神様の愛を伝えようと願われたのです。

このおことばを聞く多くの人々が、死の道から永遠の命の道へ、闇から光の中へ移って行くように、切実に願われたのです。
 第ニは神様のひとり子であるイエス様が、救い主としてこのように徹底して神様から捨てられて人間のために死なれるのですが、これを知らずに、依然として闇の中で死の道を歩んでいる多くのたましいたちをあわれに思って、彼らに今一度警告して悟らせようとなさったためでした。

(2)第五言:「わたしは渇く。」

 十架上の七言の五言目のおことばは、ヨハネの福音書19章28節に書かれています。「この後、イエスはすべてのことが完了したことを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。そこには醜いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。」とあります。

旧約聖書の詩篇69篇21節を見ると、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」と書かれているので、イエス様は「わたしは渇く。」とおっしゃって、聖書のとおりに酢いぶどう酒を唇にお受けになったのです。それでは、イエス様が「わたしは渇く。」とおっしゃって、酢いぶとう酒を唇にお受けになった理由は何でしょうか?血を流すと、流れ出た分、のどの渇きが生じます。

しかも、イエス様が十字架にかけられた4月のイスラエルは、とても暑いのです。その直射日光の下で、脱力状態で長時間十字架につけられる苦しさは、筆舌につくせません。しかし、イエス様は、のどの渇きに耐えられずに「渇く。」とおっしゃったのではなく、ここには深い霊的な意昧があることを知らなければなりません。ただ、汗と血を流したために、激しいのどの渇きに苦しんだのではなく、これよりもっと耐え難い、霊的な渇きがあったからなのです。

イエス様が血を流された理由は、人間の全ての罪を贖って旧約の律法を愛をもって完成させてくださり、救いの道を開いてくださるためでした。全人類が、罪を赦され、救われるためなのです。しかし人々はこのような神様の愛とイエス様が血を流された理由を悟れないのですから、なんとやるせないことでしょうか? ですから、私たちは、「渇く。」とおっしゃった霊的な意昧を悟らなければなりません。

 イエス様は、人々が与えた酢いぶとう酒を飲んで十字架の摂理を完成なさって、人々に新しい葡萄酒を与えてくださいました。すなわち、十字架の貴い血潮によって、だれでもイエス・キリストを迎え入れる者、すなわちその名を信じる者が、罪赦されて神様の子供としての力を与えられ、救いに至ることが出来るように御業を現わしてくださったのです。

それでは、イエス・キリストによって救われて、「わたしは渇く。」とおっしゃるイエス様の御声を聞いている私たちは、どうしなければならないのでしょうか?イエス様は、「血を流したためにのどが渇いたのだから、血の贖いを求めてくれ。」と訴えておられるのです。私たちは、血の贖いを求めて、のどを潤してさしあげるのが当然の道理です。

 イエス様の血の贖いを求めるためには、第一に、神の国と義のために祈らなければなりません。祈ることで初めて神様との交わりがなされ、宿敵である悪魔サタンが逃げて行って、神様の御言葉を守り行なうことが出来る力が与えられ、真理の中に生きることが出来るのです。また、愛さなければなりません。箴言10章12節を見ると、「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」とおっしゃっていますから、キリストの香りを放って霊的な愛を供給すると、宿敵である悪魔サタンが逃げて行って、律法を完成させることが出来るようになります。

 それだけではなく、どんなに幸いな知らせでも、宣べ伝えなければ聞くことが出来ないのですから(ローマ人への手紙10章14、15節)、伝道してたましいを救うことが、主の渇きを解消してさしあげる道です。その他、神様に感謝献金をささげることも、主の渇きを解消してさしあげることです。いろいろな献金は、神様の国を拡張させ、魂を救うために使われるからです。また、霊的な愛で熱心に忠誠、奉仕をして、喜んで賛美して、霊とまことによって礼拝をささげる時に、宿敵である悪魔サタンが逃げて行って、霊と魂が救われるようになりますが、これら全てが、主の血の贖いを求めることなのです。

(3)第六言:「完了した。」

 ヨハネの福音書19章30節を見ると、「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」とおっしゃっています。架上の七言の六番目は、『完了した。』というおことばですが、何が完了したのでしょうか?イエス様は、神様のひとり子としてこの地上に来られ神様の御心を伝え、救いの贖いの御業を完成し、愛によって律法の全てを成し遂げられました。ただ神様の御心のとおりに行なって、天国の福音を宣べ伝え、全ての病気と全てのわずらいをいやしてくださいました。

十字架を背負って、神様の御こころに死に至るまで従順して、減びの道を行くしかなかった全人類に、救いの道を開いてくださいました。すなわち、罪の贖いの御業を全て成し遂げられたのです。

ですから、私たちは、神様の御心である人間の救いの御業を全て成し遂げられたイエス様を救い主として迎え入れることによって、信仰によって救いに至っているのです。それでは、私たちは、何を、どのように成し遂げる者にならなければならないのでしょうか? まずは、神様の律法を愛で成し遂げなければなりません。

イエス様は神様の御言葉のとおりに生きられましたから、私たちも真理に従って生きるべきです。罪と義と裁きについて悟る者になり、神様が嫌われる罪を捨てて、義を行なう者にならなければなりません。すなわち、罪と血を流すまで戦って捨てて、聖霊の実と八つの祝福の実を実らせて、主の心に似ていけなければならないのです。


また、与えられた使命を果たして、熱心に祈り、伝道し、奉仕し、忠誠をつくして、多くのたましいたちを主のふところに導かなければなりません。イエス様が神様の御心と摂理に従って、死に至るまで従順して救いの摂理を全て成し遂げられたように、私たちも、神様の御心に従って、神様の御言葉どおりに生きて、死に至るまで忠誠を尽くす者にならなければなりません、そうすれば、イエス様が神様の御座の右に座しておられるように、私たちも、神様の御座がある新エルサレムに入って行く栄光に与るようになるのです。

(4)第七言 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

架上の七言の七番目のおことばは、ルカの福音書2346節に出て来るように、「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」と書かれてあります。

イエス様は、十字架に釘づけられて神様の御心を全て成し遂げるために、体は死んだのですが、その霊と魂はだれも殺すことが出来ないので、絶命なさる前に父なる神様に霊と魂をお任せしているのです。また、宇宙万物の運行のすべての過程と摂理だけではなく人間の生死禍福をも支配しておられる方は、神様のひとり子であるイエス様ではなく、創造主なる神様だからです。すなわち、全てのものが神様の所有であり、神様の支配によってなされるものであり、また、私たちが祈る時、イエス・キリストの御名によって祈りますが、祈りにこたえてくださる方はただ神様なので、イエス様は、父なる神様に「父よ。わが霊を御手にゆだねます、」と祈られたのです。

したがって私たちも、イエス様のように、また執事のステパノのように、使徒パウロのように、真理の御言葉に従って神様の御心のとおりに生きる時には、「完了した。」と告白することが出来、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と祈ることが出来るのです。もし、世とくびきをともにして生きていくならば、このようには祈れず、このような人の霊と魂は神様に受け入れられず、宿敵である悪魔サタンに捕らえられるしかないことを知って、熱心に信仰生活をして、神様の御言葉を守り行なう者にならなければなりません。

神様を愛して熱心に信仰生活をした人が死ぬ時は、平安にほほえんで、まるで眠りにつくかのようです。反対に、神様を信じることなく生きた人たちは、死ぬ時、恐怖に青ざめて目を見開いたまま死を迎えます。死の直前には、霊の目がはっきり開かれて霊の世界が見えるために、救いに至る人々は天使を見て平安を得るのですが、そうでない人々は、地獄に連れて行く黄泉(よみ)の使者を見て恐れるからです。

ですから、イエス様が、全てを「完了した。」とおっしゃったように、私たちも、全てを完了出来る者にならなければなりません。次の時間、続けて説き明かしていきます。  

この奥義は偉大です    「十字架の道(16)  

〈聖書箇所〉ルカの福音書23:46、エペソ人への手紙5:31-32。

ルカの福音書23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

エペソ人への手紙5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

十字架の道の16回目の学びです。前回に続いて「十架上の七言」の第七言について詳しく見ていき、結論として霊的な奥義について証ししていきます。

(1)第七言:「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

マタイの福音書27章5節〜54節を見ると、イエス様が息を引き取られた後に、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、また地震が起きたこと、イエス様が復活された後には、墓に眠っていた多くの聖徒が生き返って、百人隊長やイエス様を見張っていた人々が非常に恐れ、イエス様について、「この方はまことに神の子であった。」と告白しています。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたということには、霊的にどんな意昧があるのでしょうか?

神様と私たちの間には罪が隔ての壁となっていたのですが、イエス様がご自身をなだめの供え物としてさしあげられたことによって、その罪の壁を打ち壊してくださったことを意味しています。すなわち、聖所はきよい場所ですから、罪の壁のある私たちが聖所に入れないようにと幕でさえぎられていたのですが、イエス様が十字架を背負った、ということによって、今では罪の壁が打ち壊されて、私たちが聖所に入ることが出来るようになった、という意昧です。

以前には、大祭司が私たちの身代わりに罪を贖うための供え物をささげて、身代わりに神様に申し上げ、また預言者たちをとおして神様との交わりがなされたのですが、今や、直接、神様と交われる門が開かれたのです。へブル人への手紙10章19節と20節を見ると、「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」と、おっしゃっています。したがってイエス様は、私たちが直接、神様に祈るように、主の祈りを教えてくださったのです(マタイ福音書6章9節〜13節)。また、地が揺れ動いて、岩が裂けたということは、生きている山河草木の全てが大きく揺り動かされて、音を立てたということです。

これは、何の罪もないイエス様を十字架に釘づけにして殺した人間の悪を嘆息なさった、父なる神様の心の痛みを表しておられることを知らなければなりません。その次に、墓が開いて、「眠っていた多くの聖徒たち」の体が生き返って、イエスの復活の後に墓から出て来た、ということは、イエス様を信じて死んだ多くの人々の墓が開いて、復活の初穂になられたイエス様が日曜日の明け方に復活された後に初めて、彼らも復活して墓から出て来た、ということです。これは、イエス様が信じる人々の罪を贖ってくださることによって、人々に再び命が宿って復活するようになる、という復活の証拠です。

ですから、本文のルカの福音書23章46節を見ると「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」とおっしゃっていますが、これは十架上の七言の一番最後の御言葉として、イエス様が父なる神様の御心を全て成し遂げられたことを証している御言葉です。私たちは、イエスキリストの御名によって罪赦されて救われ、祈りにこたえられるのですが、これを成し遂げてくださった方は、万物の支配者である神様であり、全ての命を支配しておられる方も神様です。マタイの福音書10章29節から31節を見ると、「二羽の雀は一サリオンで売っているでしょう。

しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」と、おっしゃっています。ですから、イエス様も、息を引き取られる時に、父なる神様に霊をゆだねられたのです。

(2)この奥義は偉大です 

エペソ人への手紙5章3132節を見ると「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる、この奥義は偉大です、私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」とおっしゃっています。

この御言葉を肉的に解釈すると、何が偉大な奥義なのかを悟ることは出来ません。しかし霊的に悟ると、どんなに偉大な奥義なのかわかって聖霊が充満するようになる、尊い御言葉です。それでは、どんな奥義が隠されている御言葉でしょうか?ヨハネ福音書8章44節を見ると、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」とおっしゃっています。

最初の人であるアダムが神様に不従順して善悪の知識の木の実を食べたことによって、彼の子孫である全人類が罪の奴隷になり、罪の支配者である宿敵である悪魔サタンの奴隷になったので、宿敵である悪魔サタンが父になり、彼の子どもとして、人は罪を犯かそうとするようになったのです。

しかし、イエス・キリストを迎え入れるならば、どう変わるのでしょうか?イエスキリストをとおして罪が赦されて罪から解放され、喜びに満たされて、宿敵である悪魔サタンの手から解放されることによって、父なる神様の子供になり、神様の御言葉どおりに生きるようになります。
 すなわち、イエスキリストと信仰で結び合わされるならば、聖霊を賜物として受け、その人の霊が生まれ出て、ヨハネの福音書36節に「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」おっしゃっているように、神様の霊によって導かれる神様の子供になり、神様に属する霊が神様を「アバ、父」と呼ばせるようになるのです。

ローマ人への手紙8章14、15節を見ると「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。また、天国の主人である神様から、天国の相続人として譲り受けるようになります。」と、おっしゃっています。

 ですから、私たちは、父であった宿敵である悪魔サタンから離れて、イエス・キリストを迎え入れ、信仰によってイエス・キリストとひとつにならなければなりません。この信仰は、花婿であるイエス・キリストが、十字架を背負って私たちの罪を贖ってくださった事実に対する信仰です。ですから、神様は、キリストと教会について御言葉を通して、「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」と霊的に表現してくださったのです。

それでは、私たちは、イエス・キリストとどのようにしてひとつになるのでしょうか?私たちがイエス・キリストと結び合わされると、聖霊が私たちの心の中に来られて、神様が与えてくださる命の種と結び合わされるのです。神様は、人を創造する時に息を吹き入れてくださいましたが、これは命そのものであり、命の種は、永遠に滅びることも朽ちることもなく、人の精子と卵子をとおして子孫に伝えられるのです。すなわち、十字架の道を聞いてイエス・キリストを迎え入れ、聖霊を賜物として受けるならば、私たちの心の中にある命の種が助けを得て、聖霊と結び合わさるのです。

アダムが神様に不従順し、善悪の知識の木の実を食べて霊が死んでしまったことによって、全く活動できなくなり、死んだも同然になっていた命の種が、聖霊という神様の大いなる力と結び合わさるようになり、活動出来る力が生まれるのです。そうして、祈りに応じて神様の強い能力の力が臨んで、私たちが真理に生きることをさらに求めるように御業が現わされます。しかし、どんなに祈っても、自分の考えと理論を破らなければ真理を求めることは出来ず、私たちは全ての理論を破って、神様の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕いて、全ての考えをキリストに服従させなければなりません。

コリント人への手紙第二105節を見ると、「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」と、おっしゃっています。そして、良心に従って正しいと考えることまで全て捨てて、完全「アーメン」と服従して真理を行なっていくと、私たちの心が次第に真理の心に変わっていって、完全に聖潔な霊の人になるのです。このように、聖霊で霊を耕し、主のきよい心そのものである主とひとつになるのです。

 このような人は、なんでも祈ったとおりに答えられるようになり、神様の限りない祝福を受けるようになり、信じる者たちに伴うしるしが生まれるのです。ですからイエス様は、ヨハネの福音書157節を見ると、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。

そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とおっしゃり、また1721節を見ると、「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」と祈られたのです。私たちは、聖霊によって耕した霊だけが神様の祝福を受けて天国に行くことが出来ることを、はっきりと知らなければなりません。

また、私たちの肉体が死んで、頭の全ての脳細胞が壊れて、魂もなくなっても、心で魂の作用を感じるようになるので、霊に入力された魂が霊と結び合わされて天国に行くのです。ですから、イエス様は、神様の御心をすべて成し遂げて「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」とおっしゃったのです。私たちも、真理を行って非真理を捨て、自分の義を打ち壊して速やかに霊の人になって初めて、私たちの霊と魂が天国に行くことが出来るのです。

愛する聖徒のみな様、私たちは世の中から出て、私たちの花婿になられたイエス・キリストを迎え入れ、今では信仰で結び合わされています。ですから、花婿になられた主とひとつになれば、私たちの父になられた神様ともひとつになることをはっきりと知って、熱心に主とひとつにならなければなりません。そうして神様の子供として神の国を相続の受け継ぐ幸いな聖徒になるように、主の御名でお祈り願います。

永遠のいのち(1)   「十字架の道(17)  

〈聖書箇所〉ヨハネの福音書6:52−58。
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。6:58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

「十字架の道」の17回目の学びです。
十字架の道をとおして、イエス様が私たちの救い主になられたことがわかりました。しかし、「わかった」という知識的な信仰では救われませんので、永遠のいのちの道についてお証しします。まず、今日は、イエス・キリストを信じると言っても救われない場合について、詳しく見ていきます。

(1)「主よ、主よ」と言う者でも天の御国に、はいれない理由

マタイの福音書7章21節〜23節を見ると、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたかたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」とおっしゃっています。

イエス様に向かって「主よ、主よ。」と言うことは、「イエス様が救い主であることを信じます。」と告白することですが、そう言う者でも、みなが天国に入るのではない、という意味です。父なる神様の御心のとおりに行なう者は天国に入れるのですが、不法をなす者は入ることが出来ないのです。

そのため、ヨハネの手紙第一1章6節を見ると、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」と、おっしゃっています。またマタイの福音書13章40節−43節を見ると、「ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい、」とおっしゃっています。農夫が種を蒔けば、収穫の時期には毒麦も一緒に育っているのを見るものです。

 麦は倉に納められますが、毒麦は火に投げ込まれるように、この世の終わりの裁きの時にも、そのようになると言うのです。それでは、不法とは何でしょうか?ヨハネの手紙第」3章4節を見ると、「罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。」とおっしゃっています。罪とは、すなわち神様の御言葉から、はずれた全てのことです。神様が創造して愛されたアダムが、なぜ神様に呪われてエデンの園から追い出されたのでしょうか?

それは、神様の御言葉を破って、善悪の知識の木の実を取って食べたからです。ですから、不法を行なう者、すなわち、神様が御言葉によって「してはならない」とおっしゃることをする人、「捨てなさい」とおっしゃることを捨てない人、「しなさい」とおっしゃることをしない人、「守りなさい」とおっしゃることを守らない人は救われない、ということをはっきりと知って、ただ神様の御心のとおりに行なう義人にならなければならないのです。

(2)神の国を相続することが出来ない場合

コリント人への手紙第一6章9節、10節を見ると、「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貧欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とおっしゃっています。だまされて神様の御言葉のとおりに行わない不義な者、つまり正しくない者は天国に入ることが出来ないのです。

ですから、ガラテヤ人への手紙5章19節〜21節にも、「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とおっしゃっているのです。

また、マタイの福音書12章31節を見ると、「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。」とおっしゃっています。聖霊に逆らう冒涜とは、マルコの福音書3章20節〜30節に出て来るように、聖霊の力を、サタンによってなされた妖術だと批判することを表わしています。マタイの福音書12章32節を見ると、「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと赦されません。」とおっしゃっており、ルカの福音書12章10節を見ると、「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」とおっしゃっています。

 人の子に逆らうことばを口にするということは、人となってこの地上に来られたイエス様を救い主として信じることが出来ずに人とみなすことですから、それは赦されるのです。しかし、聖霊に逆らうことを言ったり、聖霊を汚すということは、神様を知っていると言う人が、自分の悪のために神様の御業に逆らって冒涜することですから、赦されないのです。したがって、聖霊を冒涜すること、聖霊に逆らうこと、聖霊を汚すことは永遠に赦されない大きな罪であり、救われないということを悟らなければならず、決してそのようなことがあってはなりません。(参考:ヨハネの手紙第一4章2節、第二1章7節) 

それだけではなく、ヘブル人への手紙6章4節〜6節を見ると、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とおっしゃっており、10章26節、27節を見ると、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、」とさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」と救われないとおっしゃっています。

神様を愛すると言ったダビデは、姦淫の罪を犯してしまうと、連続的にいろいろな罪を犯すようになり、殺人まで犯してしまいました。しかし、預言者ナタンが来て罪を指摘すると、ダビデは直ちに悔い改めて立ち返りました。

しかしサウル王は預言者サムエルが罪を指摘しても、罪を犯し続けました。その結果、ダビデは再び神様の祝福を受けるようになりましたが、サウル王は「退けられた」と聖書に書かれています。このように、神様を信じると言いながらも罪を犯し続ける者は、神様が御顔を背けてしまわれるので、聖霊が消えてしまうしかないのです。

本当に神様を信じる人が堕落して罪を犯すようになると、聖霊が消えて悔い改めることが出来なくなるので、その人の名前がいのちの書から消えてしまって、救われなくなるのです。しかし、知識的に知っていても本当に信じられなかった人の場合は、神様が御業を現わしてくださって信仰が生まれるようになると、救いの道に導かれていきます。教会に通っていた人が離れてしまっても、また伝道されて悔い改めて立ち返り、新しい恵みをいただくことが出来るのです。

(3)死に至る罪を犯した場合

ヨハネの手紙第一51617節を見ると、「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります。」とおっしゃっています。

すなわち、不法を行なう不義の者でも、死に至らない罪を犯している者は、その者のために人々が神様に祈り求めるならば悔い改めることによって救いに至ることが出来できるため、救われます。しかし、死に至る罪を犯している場合には、祈っても救われないので、願うなとおっしゃっているのです。

死に至る罪を犯すということは、聖霊を冒涜したり、逆らったり、汚したりする場合、また、ヘブル人への手紙6章、1O章に出て来るように、聖霊を受けた後に堕落して、主を再び十字架にかけて恥辱を与える場合、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続ける場合のことです。このような者たちは、ついには聖霊が消えてしまって、救われず、地獄の火に投げ込まれてしまうのです。ですから、私たちは、死に至らない罪を犯している人々のために、熱心に勧め、愛をもって祈って、永遠の死の道を歩いて行かないように助けなければなりません。

 愛する聖徒みな様、イエス・キリストを迎え入れたならば、「主よ。」と呼ぶだけの者にではなく、父なる神様の御心のとおりに行なう者になって、天国に入らなければなりません。神様が賜物として与えてくださった聖霊の助けをいただいて、悪は影さえも捨て、神様の御心のとおりに行なうまことの子供になって初めて、永遠のいのちを得ることが出来るからです。

本当に真心から神様を信じる人は、神様の御言葉を聞いて心の糧とし、行ないに表わし示すことによって暗闇から光の中に出るようになるのですから、行ないのあるまことの信仰を持って、永遠のいのちを得る幸いな聖徒になるように、主の御名で祈り願います。

永遠のいのち(2)     「十字架の道(18)  
    「人の子の肉を食べる方法」

〈聖書箇所〉出エジプト記12:9−10。
12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。

先回は、イエス・キリストを信じると言いながらも救われない場合について、詳しく見ました。私たちが永遠のいのちを得るためには、人の子の肉を食べ、人の子の血を飲まなければならないのですが(ヨハネ福音書6章53〜58節)、どうやって食べ、どうやって飲むのかにっいて、これから数回にわたって証ししていきます。きょうは「人の子の肉」と題した十「字架の道」の18回目の学びです。私たちがイエス・キリストを信じる一番大きな目的は、救われて永遠のいのちの道を歩むことです。この時間は、人の子の肉を食べる方法について証ししていきます。

(1)イエス様を意味する子羊

神様は、生ける霊として人を創造されたので、人は永遠に生きることが出来ました。しかし、「生ける霊」であったアダムが善悪の知識の木の実を取って食べたことによって、神様が「必ず死ぬ」とおっしゃったように、人は「死せる霊」になってしまったのです。神様は、私たちの死んだ霊を生き返らせるために、イエス・キリストをこの地上に送って十字架につけて死なせました。そのことによって、だれでもイエス・キリストを迎え入れて罪を赦され、聖霊を賜物として受けるならば、死んだ霊が再び生き返るのです。

このように「死せる霊」は、霊が生き返り、聖霊に助けられて人の子の肉を食べ、人の子の血を飲むなら「生ける霊」になって永遠に生きるようになるのです。ですから、人の子の肉をどうやって食べ、人の子の血をどうやって飲んだら、いのちが宿り、永遠のいのちが得られるのか、具体的に知らなければなりません。聖書を見ると、イエス様は「人の子の肉」を「私のからだ」「いのちのパン」「生けるパン」「子羊」などと表現しておられますが、これは霊的には神様の御言葉、つまり真理を意味しています。

 神様のひとり子としてこの地上に来られたイエス様は、真理そのものであられるからです(ヨハネ福音書14章6節)本文を見ると、子羊を食べる方法が出ていますが、「子羊」とはイエス様を意味しています。
なぜ神様は、イエス様を子羊にたとえられたのでしょうか?羊は、多くの家畜の中でも、一番素直で柔和で悪がありません。戦うことも知らず、相手に害を与えることも、受けることも知りません。

そして、よく従順するので、羊飼いの声が聞こえると、その声に聞き従います。しかし、他の人が羊飼いの声をまねても、その声を聞き分けて、従いません。それだけではなく、羊は人間に全てを犠牲にして提供しています。白く柔らかい毛だけではなく、乳と肉まで提供しています。このように、人間のために自分の全てを犠牲にするものが、羊なのです。

ですから、神様は、全人類の救い主であるイエス様を子羊にたとえられたのです。ヨハネの福音書1章29節を見ると、洗礼ヨハネは、イエス様が自分のところに来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました。またペテロの手紙第一1章19節には、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」、また黙示録5章12節にも、ほふられた小羊は、カと、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」とおっしゃっています。

他にも黙示録5章6節やヨハネ福音書21章15節などでも、イエス様を子羊にたとえています。それでは、子羊を取るために、「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。」とおっしゃっている理由は何でしょうか?一歳の羊が、一番肉が柔らかく、姿がきよくて美しいだけでなく、交尾する直前だからです。神様は、しみも傷もないきよい方なので、子羊を取る時も、人の青年期にあたる一番美しい姿の一歳の子羊を取りなさい、と命じられたのです。

(2)子羊を食べる方法

出エジプト記12章8節〜10節を見ると、子羊を食べる方法について書かれていますが、『その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、…食べなければならない。それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。』とおっしゃっています。子羊をどのように食べるのか、霊的な意味について詳しく見ていきましょう。

1.生のままで食べてはならない

 肉を生で食べると、腹痛がしたり、病原菌が入って病気になったりすることがあって、体に害になります。同じように、霊的にも神様の御言葉を生で食べると、害になるので、「生で食べてはならない」とおっしゃっているのです。神様の御言葉を生で食べるということは、神様の御言葉を文字どおりに読んで糧とすることです。聖書は聖霊の感動をもって書かれたものですから、読む時にも、聖霊の感動がなければ、その中に秘められている霊的な意味を理解することが出来ません。

ですから、文字どおりに読んではならないのです。イエス様は、天国の福音を宣べ伝える時、この世に生きている人が悟りやすいように、目に見えるものなどにたとえて説明されたので、文字どおりに読んでしまうと、霊的な人に変わることが出来ないのです。マタイの福音書6章6節を見ると『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい、そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』と書かれています。

 この御言葉を文字どおりに生で食べると、どのようにしなければならないでしょうか?神様のご命令ですから、御言葉どおりにしなければならなくなります。しかし聖書を見ても、信仰の先人たちが奥まった部屋に入って祈った、と書かれていません。預言者も、イエス様の弟子たちも、そしてイエス様も、奥まった部屋に入って祈ったのではありません(ダニエル書6章10節、使徒の働き10章9節、21章5節)。

それならば、この中に翔められている霊的な意味は何でしょうか?奥まった部屋に入ると外部から遮断されるように、祈る時には、雑念や世の苦しみ、憂いを遮断して、心をつくして真心から祈りなさい、という意味です。
つまり、「心をつくして祈りなさい。」と言ってもよく理解することが出来ないため、奥まった部屋にたとえて説明なさったのです。また、コリント人への手紙二第一14章34節を見ると、『教会では、妻たちは黙っていなさい。』とおっしゃっています。

 これを文字どおりに生で食べると、女性は教会の役員や係になれず、命じられたことをするだけで発言権がなく、意思表示も出来ないことになります。しかし、ル力の福音書8章2、3節を見ると、イエス様から恵みを与えられた女性たちが、自分の財産をもってイエス様のお供をして仕えていましたし、旧約時代でも、女性のほうが男性よりも神様の御前にふさわしい時には、神様はその女性を用いられました。

イスラエルの士師として国を治めたデボラ預言者が、その例です。復活されたイエス様に一番初めにお会いしたのも、女性でした。このように聖書を文字どおりに誤って食べると、とんでもない道に行ってしまうのです。ですから文字どおりに御言葉を食べるのではなく、霊的な意味を知って糧としなければならないのです。

2.水で煮て食べてはならない

肉を水で煮て食べてはならないということは、神様の御言葉に他の何も加えず、純粋に食べなさい、ということです。 神様の御言葉に、優れた君子や尊敬すべき人の言葉、あるいは政治の話、社会の現象などを混ぜて伝えてはならないのです。

神様の御言葉だけが、まことであり、真理であり、永遠に変わらないものなので、私たちを永遠のいのちに導くことが出来るからです。優れた君子の言葉の中にも善や真理がありますが、それさえも聖書66巻の御言葉の中に全て含まれているので、神様の御言葉は、私たちを永遠のいのちの道に導くのに少しの不足もありません。

3.全て火で焼いて食べなければならない

 子羊とはイエス様を意味していますから、聖書66巻の御言葉を丸ごと食べなさい、ということです。人の考えに合わせて、必要な部分だけを読んだり信じたりするのではなく、創世記から黙示録まで一つも捨てることなく全部、しかも火で焼いて食べなければならないのです。

ここで、火とは聖霊の火を意味しています。すなわち神様の御言葉に聖霊の感動をもって向かうと、その御言葉が蜜の味になります。また聖霊の火で焼くことによって初めて、私たちが御言葉をよく悟ってよく消化することが出来、糧となることが出来るので、父なる神様の御心を知り、御心を求めて生きていくことが出来るようになるのです。

しかし、火で焼かずに、自分の考えと知識をもって神様の御言葉を聞く人は、御言葉が退屈であり、雑念の中で聞くので、長く記憶することも出来ません。そんなことでは、どうしてそれがいのちになり得るでしょうか?  

神様は、夕暮れに子羊を屠り、その夜にその肉を火で焼いて全て食べて、朝まで残しておいてはならない、とおっしゃいました。私たちが生きているこの世は、宿敵である悪魔サタンが権勢を握っている「暗闇」の世です。しかし主が再臨されると、暗闇が退き、のろいが解かれ、全てが完全に回復する「朝」になります。

ですから私たちは、主が再臨される前に熱心に神様の御言葉を食べなければなりません。主の再臨がなくても、人生は健やかでも780才ですから、主にお会いするまで、霊と魂が健やかになるため、救いに至るために、神様の御言葉を糧とするのです。次の時間に続けて証しします。

永遠のいのち(3)    「十字架の道(19)  

〈聖書箇所〉ヨハネの手紙第一1:5−7。
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 前の学びには、永遠のいのちを得るためには、「人の子の肉を食べ、人の子の血を飲まなければならない」(ヨハネ福音書6章53節〜58節)ということについて、人の子の肉を食べるとは、どういうことなのか、その方法をおもに出エジプト記から説明しました。今日は、人の子の血を飲むとは、どういうことなのか、その方法について証していきます。

(1)永遠のいのちを得るためには

人間は、霊と魂と肉からなっています。霊は、人間の主人です。魂は、霊のしもべです。霊と魂が宿る幕屋、テントです。人の体から霊と魂が離れた後に残る肉を人とは言わずに死体と呼ぶのは、人にとって本当に価値があるのは、肉の中に宿る霊魂だからです。霊魂は不滅ですから、天国か地獄、二つの道のうちの一つを行くことになるのです。もともと神様が人間を創造された時には、神様のかたちに、生きた霊としてお造りになりました。

そうして神様はいつも人と共に歩まれて、善、すなわち、真理と光だけを教えてくださいました。 しがし、長い歳月がたって、宿敵である悪魔サタンが蛇をとおして人を誘惑したので、人はついに神様の命令に背いて、善悪の木の実を取って食べてしまったのです。この時から悪が入って来て、その結果、善と悪が区別されるようになりました。

ただ、光だけが存在するならば、私たちは暗闇については全く知り得ません。この光の中に暗闇が入って来ることによって、「ああ、これが光なんだ。あれが暗闇だ。」と、善と悪がわかるようになるのです。不従順の結果、神様がおっしゃったとおりに人間の本当の主人である霊が死んでしまったので、人は神様と交わることが出来なくなりました。神様が御顔を背けられたので、宿敵である悪魔サタンが真理に反する非真理を度々人に植えつけるようになってきました。

例をあげて説明すると、神様が教えてくださる善、真理というものは、人に光を与えるので、人は白くきよく聖なる心を持っていたのですが、宿敵である悪魔サタンは反対に悪、非真理という暗闇を植えつけるので、人は黒くて汚い心になりました。

そして歳月がたつほど、科学が発達して文明が発達するほどに、人はますます宿敵である悪魔サタンと結びついて黒い心になっていったので、獣と違わないまでに変わってしまったのです。ですから、伝道者の書3章18節を見ると、「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」とおっしゃっているのです。神様は光であられ、きよい方であられます。また、天国はきよ<聖なる所で、悪がない所なので、黒い心は天国に住むことが出来ず、地獄に行くしかありません。

 そのため、愛の神様はひとり子であるイエス・キリストを備えてくださり、時が至ってこの地上に送られ、私たちの罪を贖ってくださったのです。血はいのちですから、いのちの血を流して私たちの罪を洗ってくださって、信じる者は行ないによってこの罪を脱ぎ捨てて、黒い心を白い心に変えられるように御業を現わしてくださったのです。それで主は、「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」とおっしゃっているのです。

(2)黒い心を白い心に変えるためには

主の肉はまことの食べ物であり、主の血はまことの飲み物である、とおっしゃっています。どんな英雄豪傑でも、食べず、飲まずでは生命を維持することが出来ません。同じように、死んでしまった霊を生き返らせるためには、黒い心を白い心に変えなければなりません。白い心は霊ですが、黒い心は肉です。人は肉体をもっては、結局は滅びに行かざるを得ないからです。それでは、自い心に変えるためには、どうしたらよいのでしょうか?

聖書66巻に書かれている神様の命令を守り行なうことです。たとえば、神様が「しなさい」とおっしゃることがあります。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい』とおっしゃっていますから、この御言葉に従って、そのとおりに行なっていくならば、白い心になります。また『守りなさい』とおっしゃっていることもあります。

『主日を守りなさい。十戒を守りなさい。』と命じておられますから、これらを守るならば、白い心になるのです。また、「捨てなさい」と言われるものもあります。『悪はどんな悪でも避け、悪の影さえも捨てなさい。』とおっしゃっていますから、捨てなさいと言われるものを捨てるならば、白い心になるのです。

 しかし、これも人の力だけではできません。祈って、聖霊に満たされて助けられなければならないのです。私たちの力で罪を捨てることが出来るならば、イエス様が十字架につけられなければならなかった理由も、神様が聖霊を送らなければならない理由もないからです。私たちは自分で罪の問題を解決することが出来ないので、神様は、イエス・キリストを送って十字架に釘づけて死なせることによって私たらの罪を贖ってくださり、聖霊を送って黒い心を白い心に変えることが出来るように御業を現わしてくださいました。

これが、神様が価(あたい)なしに与えてくださった恵みであり、恩寵なのです。ですから聖霊が助けてくださるならば、私たちは、御言葉を守り行ない、捨てるべきものを捨てることが出来できるようになるのです。そうして黒い心が白い心になって神様の心に似せられる分に応じて、これが信仰だと認められるようになり、それに応じた位置の天国に入って、すばらしい永遠のいのちと幸いを味わい楽しんで生きていくようになるのです。

ですから、ヨハネ福昔書356節に、『人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』とおっしゃっているのです。水、すなわち神様の御言葉を聞いて、イエス・キリストが私たちのメシヤであることを知って救い主として迎え入れるならば、聖霊が私たちの中に来られます。こうして水と聖霊によって生まれ変わるならば、聖霊は私たちに罪とは何か、義とは何かを教え、裁きがあることを教えてくださるのです。

そのため、信じる人は、裁きにあわないように罪を捨てて義人になろうとするのです。非真理の黒い心を真理の白い、心に変えるのですが、自分がするのではなく、祈りをとおして聖霊に助けられ、神様の恵みと力によって行なわれていくことですから、難しくありません。黒い心の中には、悪臭を放つ、ありとあらゆる汚れたものがあります。

私たちは、汚れた衣を洗ってきよく白くするように、汚れた心を一生懸命に洗って主のきよい心に変えなければならないのです。本当に神様に愛されて、神様と交わって生きることが、この地上でも祝福であり、天国でも報いであり、父の御座の右で父を仰ぎ見て、永遠に幸福に生きていく道になるからです。私たちの主が血を流してくださいましたから、神様の御言葉を信じて行なうこと自体が、主の血を飲むことになるのです。主が血を流してくださった理由は何でしょうか?それは、私たちの罪を贖うためです。

ですから、私たちは、主の血を飲むことによって黒い心を白い心に変えていくのであり、主の尊い血潮が黒い心を白く洗うのです。信じる人はこのように行ないがともなうことによって黒い心を白い心に変えていきますが、白い心とは、真理そのものであり、神様の心であり、霊なのです。死んでしまった霊が生きかえって霊の人に成長する神様は生きかえった霊をご覧になります。

私たちの霊魂を召される時も、生きかえった霊を召されるのです。天国は、きよく聖なる場所であり、霊と光だけが存在しているため、聖霊によって霊を生んで私たちが真理と義の中で生きるように助けてくださり、黒い心を白く変えるように御業を現わしてくださるのです。そうして白い心になって霊を耕(たがや)した分に応じて、美しい天国に導かれるのです。

愛する聖徒のみなさま、ルカ福音書12章47節、48節に、主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、信じると言いながらも御言葉を守り行なわなければ本当の愚か者になりますから、真に人の子の血を飲んで御言葉を行なう者にならなければなりません。聞いただけ、知っているだけの知識的な信仰を霊的な信仰に変えて歩み、永遠のいのちを所有する幸いな聖徒になるように、主の御名で祝福して祈ります。

永遠のいのち(4)    「十字架の道(20)  

〈聖書箇所〉ヨハネの手紙第一1:5−7。
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 

前の時間は「永遠のいのちを得るためには、人の子の肉を食べ、人の子の血を飲まなければならない。」ということについて脱明しました。「人の子の肉」とは神様の御言葉、すなわち真理であり、この真理の御言葉を食べて信仰で行なうことが、「人の子の血を飲むことである。」とお話ししました。今日は、神様の御言葉をとおして、「人の子の肉を信仰で食べて行なうことが、なぜ人の子の血を、飲むことなのか。」また「なぜ救われる道になるのか。」について証ししていきます。

(1)光の中で行なう時、罪が赦される

聖書本文を見ると、『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであっで、真理を行なってはいません。』とおっしゃっています。神様と交わり、人の子の肉を食べて消化して、真理の心になると、当然、暗闇から出て光の中を歩むからです。

本当にイエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださった救い主であるとはっきり信じるならば、広い道ではなく、狭い道を歩むのです。広い道とはこの世と妥協する暗闇の道であり、自分の利益を求める道であり、真理に反する非真理の道です。(参考:ヨハネの手紙第一1章7節、2章10節) この地上にしばし生きて一握りのちりに返るのが人生だとするならば、自分の利益を求めて広い道を歩みもしますが、次の世があることをはっきりと信じるならば、忍耐し、節制して狭い道を歩まなければなりません。

信じるからこそ、暗闇から出て明るい光の中を歩むのであり、自分のうちにある不法、不義、罪悪を脱ぎ捨てて、黒い心を白い心に、主の善き真理の心に変えて歩むのです。それで本文は、狭い道を歩んで光の中で行なう時に、主の尊い血潮が私たちを全ての罪からきよめて洗ってくださる、とおっしゃっているのです。

しかし、今日、神様の御言葉をまちがって理解して、「主よ、信じます。」と言いさえすれば救われる、と思っている場合が本当に多いのです。黙示録3章5節を見ると、「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」とおっしゃっています。イエス・キリストを迎え入れて、聖霊を受けて神様の子供になるならば、いのちの書に名前が記されます。

人の子の肉を食べて血を飲み続けて霊的な成長をなし、この世の罪と戦って勝利する者、すなわち、暗闇から出て光の中を歩む者は、いのちの書から名前を消されることなくそのままですが、依然として罪の中を歩み続ける者は、その名前がいのちの書から消されてしまう、という意味です。ですからマタイの福音書7章21節を見ると、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」とおっしゃっているのです。

また使命を果たさない者に対しては、マタイ福音書25章26節〜30節を見ると、「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない、所から集めることを知っていたというのか。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯きしりするのです。」とおっしゃっています。神様は、使命を果たさなくても「悪い、なまけ者のしもべだ。」と責められるのですから、どうして、「主よ、主よ。」と言うからといって無条件に救われるのでしょうか。

マタイの福音音25章には、十人の娘のたとえが出ています。十人の娘、全員がともしびを準備して婚礼の祝宴のために花婿を待っていましたから、「神様を信じる。」と言う人たちです。

しかし、そのうちの愚かななまけ者の五人の娘は、花婿が遅れたので、うとうと眠っているうちに、油がなくなってしまいました。それでいざ花婿が来た時には、油を買いに行っていたので、婚礼の祝宴の戸が閉められてしまい、花婿を迎えることが出来なかった、という内容です。この他にも、神様は「麦と殻のたとえ」や「羊と山羊のたとえ」をとおして、私たちは聖霊を受けたからといって無条件に救いに至るのではなく、暗闇から出て光の中で行なう時に救いに至ることが出来る、ということをはっきり教えてくださっています。

(2)救いに至らせる信仰

ヤコブの手紙2章は、完全な信仰について具体的に定義してしいますが、信仰には必ず行ないが伴うのです。21417節を見ると、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」とおっしゃっています。

死んだ信仰では、救われないのです。たとえば、「のどの渇きをいやすためには、水を飲まなければならない。」と聞いて知っていても、まだ一回も水を飲んだことがない人は、「水を飲めば、のどの渇きがいやされる。」という言葉が心から信じられず、「飲んでみたらわかる。」と答えるでしょう。水を飲まなければのどが渇いたままですが、実際に水を飲んでみると、渇きがいやされることを体験するので、まことの信仰が生まれるようになります。

すなわち、心に疑いを持たずに「飲む」という行ないが伴うならば、信仰がまことのものになるのです。22126節にも、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とおっしゃっています。

アブラハムは、無から有を生み出される創造主なる神様を信じて、神様の御言葉に従順し、義と認められたので、神様の大きな祝福を与えられました。信仰の父になり、祝福の基になり、神の友と呼ばれたのです。どれほど大きな祝福でしょうか?このように、行ないのある生きた信仰であって初めて、救われ、答えられ、祝福されるのです。ですから私たちは、行ないのない信仰は、たましいを離れたからだが死んだものであるのと同様に死んだ信仰であるため、滅びの道に行くしかないことをはっきりと知って、熱心に人の子の肉を食べ、人の子の血を飲んで、行ないのある信仰を持たなければならないのです。

天国と地獄があることを間いて知ったために教会に行き来して、どれほど「信じる。」と言ったとしても、本当に心に信じることが出来できないために行ないが伴わなければ、神様はこれを信仰とは、お認めにならず、むしろ偽りを言っている、とおっしゃるからです。

エジプトで奴隷の人生を送って、モーセに従って出エジプトしたイスラエルの民は、果たして神様を信じたでしょうか?彼らは、何度も神様の奇跡としるしを見たにもかかわらず、神様がいざ「カナンの地に入れ。」とおっしゃった時は、怖れて従順することが出来ませんでした。その結果、信仰を示したカレブとヨシュアだけが、カナンの地に入ることが出来たのです。神様は、イスラエルの民がカナンの地に入ることが出来なかったのは、「信じないからだ。」とおっしゃいました。

ですから民数記14章11節を見ると、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」とおっしゃっているのです。ローマ人への手紙213節を見ると、「それは、律法を聞<者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」とおっしゃっています。

熱心に礼拝に出席して神様の御言葉を聞き、その御言葉どおりに行なう者であってこそ、義と認められるのであり、人の子の肉を食べて血を飲み、黒い心を白い心に変えられてこそ、義人になるのです。またペテロの手紙第一1章15,6節を見ると、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」とおっしゃっていますから、聖い主の心に似せられて、神のご性質にあずかる者にならなければなりません。

愛する聖徒のみなさま、 旧約時代には行為によって救われたのですが、新約時代には信仰によって救われます。主が十字架を負って血を流してくださらなかったならば、私たちは依然として罪人のままだったのですが、主が血を流してくださったことによって聖霊を賜物として受けて、信仰によって光の中で行なって、全ての罪を赦されて救いに至るようになったからです。ですから、熱心に人の子の肉を食べて血を飲み、信仰によって行なう者になり、美しい天国で永遠のいのちの幸福を与えられる聖徒になるように、祝福して祈ります。

水と御霊によって新しく生まれるならば救われる 「十字架の道(21)  

〈聖書箇所〉ヨハネの福音書3章1〜15節
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

十字架の道21番目の学びです。この前は、主イエス様の肉を信仰によって食べて行なう事が、何故、主イエス様の血を飲むことになり、また、信仰で救われる道になるのかについて説明しました。 今日は、水と御霊によって生まれ変わるとは何か、又、何故、水と御霊によって新しく生まれるならば救われて永遠の命を得られるのかについて、本文に出て来るイエス様とニコデモの対話を通して調べて見て、十字架の道を終えたいと思います。

(1)イエス様とニコデモの対話

 イエス様の当時、パリサイ人たちはモーセの律法を尊重して、先祖から伝統を守って来ました。又、神様の支配によってこの世界が動いている事を信じて、復活と天使と終末論とメシヤがいらっしゃるのを信じた、選民イスラエルの中でも主軸をなした人々でした。

ところがイエス様はこのようなパリサイ人達に「忌まわしいものだ」と言いながら、度々厳しく叱責をされました。マタイの福音書23章25節〜36節によく出て来ている様に、彼等は偽善者で、行為的には聖なる振りをしましたが、心の中は貪欲と放蕩で満ちていて、まるで白く塗った墓のようなものだった為です。

この様なパリサイ人の一人だったニコデモは、議員であり、イスラエルの教師と呼ばれる民の指導者でしたが、イエス様が行なうしるしと不思議な御業を見て、神様から来られた方であることを知っていたので、いつもイエス様の側に立って弁護した人でした。

ヨハネの福音書7章50節〜51節を見ると、イエス様を捕らえようとするパリサイ人たちに「私達の律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのかを知った上でなければ、判決を下さないのではないか。」とイエス様を弁護しています。これはキリスト教が法律によって禁じられ、イエス様が異端にされた当時、イスラエルの議員としては決して易しい事ではありませんでした。

ニコデモは霊的に無知であり、真理を明らかに悟れなかったのですが、心の門(扉)を開いてイエス様を知ろうと願ったので、夜、イエス様を訪ねました。正しい信仰の中に留まらなかったので、昼間には堂々と訪ねられなかったのです。このようなニコデモは、イエス様と対話中に霊的な御言葉を悟ることが出来ませんでしたが、神様とイエス様を知るため、切に求める真心だったので、結局、主イエス様を迎え入れて、救われた人になりました。ヨハネの福音書19章39節を見ると、ニコデモは、イエス様が十字架に打ち付けられて亡くなられた時に、没薬とアロエを混ぜ合わせた物を持って来て、葬式を執り行なう者になった、と書かれています。

本文を見ると、イエス様はニコデモに「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見る事は出来ません。」とおっしゃいました。ニコデモは新しく生まれると言う、霊的な御言葉を悟ることが出来なかった為に、「人は、老年になっていて、どのようにして生まれる事が出来るのですか。もう一度、母の胎に入って生まれる事が出来ましょうか。」と、又質問します。ニコデモはまだ霊の目が開かなかったので、文字的にだけ御言葉を聞いたため、理解することが出来なかったのです。

今日、イエス様を信じない者や信仰が小さい者は、まだ霊的な御言葉を理解することが出来ないために、どんなに説明しても信じることが出来ないのと同じです。それでイエス様はニコデモに「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事が出来ません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と言われながら、水と御霊によって新しく生まれることを説明して下さいます。

この御言葉を聞いたニコデモが、これを不思議に思っていると、イエス様は「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」とたとえを用いて説明をしてくださいました。

アダムの不従順以後、すべての人間は霊が死んで滅びの道に行くようになりましたが、肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれたものは霊ですから、水と御霊によって新しく生まれると、御霊によって真理の中に生きて行くようになるため、死んだ霊が蘇って、ますます霊的な人になり、失った神様の姿を取り戻して救われる、ということをおっしゃったのですが、霊の目が開かれていないニコデモは、相変わらず悟ることが出来なかったのです。

それで、「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」と答えて言うと、イエス様は、「あなたがたは、わたしが地上のことを話した時、信じないくらいなら天上の事を話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」とおっしゃいました。

民数記21章4節〜9節を見ると、イスラエルの民たちはエジプトから連れ出され、主が与えると約束された乳と蜜の流れるカナンの地に向かって行く途中、荒野の道が険しくて、民が神様とモーセを恨んだことがありました。そうすると、神様は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民に噛み付きました。民が救ってくださいと叫ぶと、神様はモーセに命じて青銅の蛇を作り、旗竿の上に付けさせました。それで悔い改めてそれを仰ぎ見る者は生きるようにされたのです。

しかし、心がかたくなになった者たちは、それでも信じられないので、仰ぎ見ずに死んでいきました。それならば、神様は何故蛇を青銅で作って旗竿の上に付けるように摂理されたのでしょうか。蛇は創世記3章14節に呪われたものとして出て来ます。

これは、ガラテヤ人への手紙3章13節に「木にかけられる者はすべて呪われたものである。」と書かれていますように、イエス様が私たちのあらゆる罪を贖い出してくださる為に、呪われた蛇のように、木の十字架に架けられることを象徴されたことなのです。また、イエス・キリストを信じる者全てが救われ、永遠のいのちを得るためでした。

(2)『水と御霊によって新しく生まれ』の霊的な意味を説明すると、どのように水と御霊によって新しく生まれるのでしょうか。

水は汚い物を清潔に洗って新しく造りなおして、万物を蘇生させます(ローマ8章19節-21節)。すなわち、命を与えるという意味です。ところが、この「水」というのも、主イエス様が肉的なものでたとえて、霊的なことを表してくださったのです。霊的に言い換えて見ると、水は真理、すなわち、「神様の御言葉」になります。

水が汚れを洗う作用をするので、体の汚れは水で洗って綺麗にするように、神様の御言葉は霊的なものなので、肉の中にある霊魂、心の汚れを脱ぎ捨てさせるようになります。すなわち、真理の御言葉に従って行くならば、心の汚れ、つまり、あらゆる非真理、悪、不法、不正、こういう汚い罪等を全部脱ぎ捨てるようになるのです。

こういう罪、悪が私たちの中にあると、罪から来る報酬は死ですから、地獄に行くしかないのですが、罪の垢を脱ぎ捨てるので、命が新しく生まれて蘇るために、永遠のいのちの道を歩むことが出来ると言うのです。それでは、水が本当に御言葉であることについて聖書から調べてみましょう。

ヨハネの福音書4章13節〜14節節を見ると、イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇く事がありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」とおっしゃいました。

「水」とは「永遠の命への水」、つまり「神様の御言葉」を意味します。また、主イエス様が「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っている、永遠に生きる。」とおっしゃったので(ヨハネの福音書6章53節-58節)、水はすなわち、神様の御言葉であり、人の子の肉であり、子羊であることが分かります。

それで水の洗礼を受けることも、水であらゆる汚れを洗うように、神様の御言葉によって心の汚れを洗う、と言う霊的な意味が含まれているのです(ペテロの手紙第一3章21節)。ところが、ヨハネの手紙第T、5章7節〜8節を見ると「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」とおっしゃっています。御霊は私たちのうちに臨まれて、イエス・キリストが救い主であることを教えて下さり、又、罪を脱ぎ捨てて義の中に生きるので、命が宿られて救われるように助けて下さいます。

また、水、つまり、神様の御言葉によって、全ての罪を洗うために、命が宿られて永遠のいのちの道に行くことが出来ます。そして、主イエス様の血でなければ、私達の罪が贖われませんから、私達が信じて行なう時、罪を捨てることが出来ます。影で現わされた神様の御言葉が、イエス様が十字架を背負って血潮を流して下さって復活されたので、完全に臨むようになったのです。それで御霊と水と血が連合して私達の救い主になり、私達を救いながら天国に導かれるのです。

(3)水と御霊によって新しく生まれるならば救われる

私たちが罪を悔い改めて、主イエス様を救い主として迎え入れるならば、神様は聖霊を賜物としてくださいます。(使徒2章38節) 聖霊を受けるならば神様の子供とされる特権を受けるようになり、天国の命の書に名前が記録され、また、御霊は私たちのうちに住んでおられて、イエス・キリストが私達の救い主となることを、より確かに信じられるようにしてくださり、罪と義と審判について教えて下さいます。すなわち、神様の御言葉を聞いて教われるようにしてくださり、悟りを与えるのです。それで聖潔な心、善な良心、真理の心、主イエス様の御心に似た霊的な人になるようにしてくださいます。

このように神様の恵みにより、水と御霊によって新しく生まれるならば、天国に行くことが出来るのです。ルカの福音書10章20節を見ると、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」おっしゃっており、また、ピリピ人への手紙3章20節を見ると、「私達の国籍は天にあります。」とおっしゃいました。

ですから、天国の主人であられる、父なる神様の御心を慕い求めて生きていくことは、あまりにも当然なことです。天国の市民権を受けた人は、その人の中におられる聖霊が、御霊の願うことに従って、天国の法則の通りに生きるように働いて下さるためです。

それにもかかわらず神様の御心に従わずに、不法を行なっていくならば、いのちの書に記録しておいた名前が消されるのです。(出エジプト32章32節、ヨハネの黙示録3章)。すると、神様に背けられる、その時は救われない、と、聖書には繰り返して書かれています。従って、水と御霊によって新しく生まれた神様の子供たちは、神様の御心に従って行なうため、救われるようになります。

愛する聖徒の皆さん。
十字架の道は正に救いの道であり、信仰の基礎です。皆さんが今まで語られた御言葉を、心の奥に糧として守り行ない、救いに至るだけではなく、明らかな御声と導きを受けて、神様に栄光を捧げる幸いな人生を送ることを主の御名によって祈り願います。

 

主日礼拝 : AM 10, AM 11:30, PM 3:00    金曜徹夜礼拝 : PM 11:00